正林寺法華講員手引書

『折伏・家庭訪問・教化育成・法統相続・教学研鑚・邪義破折・支部組織の充実強化に活用』 法華講正林寺支部 正林編集部

「水の信心」と「火の信心」

2005-11-21 | 手引書④

 日蓮大聖人は『上野殿御返事』に、
 「今の時、法華経を信ずる人あり。或は火のごとく信ずる人もあり。或は水のごとく信ずる人もあり。聴聞する時はも(燃)へた(立)つばかりをも(思)へども、とを(遠)ざかりぬればす(捨)つる心あり。水のごとくと申すはいつもたい(退)せず信ずるなり。此はいかなる時もつね(常)はたいせずと(訪)わせ給へば、水のごとく信ぜさせ給へるか」(御書1206)
と水が絶え間なく流れるような信心をするように御指南であります。その反面、火が一瞬に燃えさかり、その後は鎮火してしまうような信心は慎むよう仰せです。
 更に「水の信心」と「火の信心」には、深い意味があります。日蓮大聖人の『上野殿御返事』では、水の長所と火の短所をもって仰せであります。しかし、この水の長所に火の短所ではなく、火の本来持っている長所を用いれば、更に不退の信心に根ざすことが出来ます。それが「相伝に非ざれば知り難し」の御法門であります。異流義創価学会には伝わっていません。
 火の信心の長所とは、「即応折伏」や謗法厳戒・破邪顕正の精神で、烈火の如く一瞬にして謗法を責めるときに必要です。「火の信心」をもって謗法の族と縁を絶ち切ることが出来ます。謗法者の訪問にお悩みの方は、「火の信心」を常日頃の「水の信心」に加味すれば鬼に金棒であります。
 『経王殿御返事』に、
 「但し御信心によるべし。つるぎ(剣)なんども、すヽ(進)まざる人のためには用ふる事なし。法華経の剣は信心のけなげ(健気)なる人こそ用ふる事なれ。鬼にかなぼう(金棒)たるべし」(御書685)
と御教示であり、火に譬えた剣も使い方を間違えれば「鬼に金棒」ではなく無用になり、使い方を心得ていれば持ち味を有効にすることができます。
 「水の信心」で信心を磨き、信心即生活において、更に生活で無用と思われたものを有効に活用していくことが、「火の信心」の長所を生かすことになります。日蓮大聖人の御書には、文上では拝することの出来ない、文底に秘沈された「御相伝」における有り難い意味があります。それが日蓮正宗に今現在でも伝えられています。
 寺院に参詣され、御住職様の法話を拝聴させて頂くことで有り難いお話が聞けます。「火の信心」を改め直し「水の信心」に徹していけるようになる場所が、日蓮正宗の寺院であります。寺院での唱題行は「水の信心」を身口意の三業に身に付け、更に「火の信心」の短所を排除させ、長所を身に付けていくことが出来るのが、寺院で行われる唱題行です。唱題行に参加し「水の信心」に磨きをかけましょう。
 『御講聞書』に曰わく、
 「総じて此の経を信じ奉る人に水火の不同有り。其の故は火の如きの行者は多く、水の如きの行者は希(まれ)なり。火の如しとは、此の経のいわれを聞きて火炎のもえ立つが如く、貴く殊勝に思ひて信ずれ共(ども)、軈(やが)て消え失ふ。此は当座は大信心と見えたれ共、其の信心の灯(ともしび)消ゆる事やすし。さて水の如きの行者と申すは、水は昼夜不退に流るゝなり。少しもやむ事なし。其(そ)の如く法華経を信ずるを水の行者とは申すなり」(御書1856)


「我此土安穏」な境界とは

2005-11-21 | 手引書④

 『守護国家論』に、
 「問うて云はく、法華経修行の者何(いず)れの浄土を期すべきや。答へて曰く、法華経二十八品の肝心たる寿量品に云はく『我常在此娑婆世界』と。亦云はく『我常住於此』と。亦云はく『我此土安穏』文。此の文の如くんば本地久成(くじょう)の円仏(えんぶつ)は此の世界に在(いま)せり。此の土(ど)を捨てゝ何れの土を願ふべきや。故に法華経修行の者の所住の処を浄土と思うべし。何ぞ煩(わずら)はしく他処を求めんや」(御書155)
と「我此土安穏」という境界は、別の世界にあるのではなく、「法華経修行の者の所住の処を浄土と思うべし」と仰せであります。私達が住むところが安穏になるのです。念仏を唱える浄土宗や浄土真宗は、悩み多き地球上を離れ別の世界、西方極楽浄土(さいほうごくらくじょうど)を求める思想ですが、日蓮正宗の信心は、私達が住む地球上に清らかな浄土があると教えます。 
 念仏宗で説く「西方極楽浄土」に行くまでが大変です。一生かかっても行けるところではありません。非常に遠いところにあります。そのことを考えれば、地球上で地道に日蓮正宗の信心をして本当の「浄土」を築いていく方が意味があります。更に日蓮大聖人は、そんなに遠い「西方極楽浄土」に行くのであれば時間が無駄であり、私達が住んでいるところで、綺麗な住みよい環境を造り育てた方が意義があると教えられ、未来に生まれる人達にも素晴らしい環境を残し住まわせることが出来ると御指南されています。
 その反面、浄土宗や浄土真宗で説く教義は、地球上で未来、生きていく人のことを考えない思想です。浄土宗や浄土真宗を折伏する際は、以上の点を諭すことが大事でしょう。
 つまり「我此土安穏」とは、清らかで住みよい場所は、私達が住む地球上にしかなく、今住んでいる家が「我此土安穏」という本当の浄土に変わりますということです。具体的に「我此土安穏」な境界に変える方法を日蓮大聖人が教え残されており、歴代の御法主上人が世間法に染まらないように厳護されてきたのであり、今現在でも日蓮正宗には伝えられています。
 「我此土安穏」な境界に変える方法とは、血脈が通った三大秘法の御本尊様が御安置されるところが「我此土安穏」な境界に変わる要素を秘めています。勤行唱題を根本に信心修行を地道に積み重ねるところ、現実のものとなってきます。「我此土安穏」は、御本尊様を御安置しているだけではなく実際に行動を起こさなければ変わりません。怠慢な他力本願ではいけないのであります。「他力本願」は念仏で説く教えです。御本尊様を受持しても、それは信心ではなく念仏の思想に汚染された似非信心であることを誡めるべきです。
 「他力本願」の考え方を変える修行方法が勤行唱題です。勤行唱題をすることで、「他力本願」の命を改め、念仏的な考え方を防非止悪させることができます。毎日の勤行唱題は欠かさず行うことが大事です。そこに「我此土安穏」な境界があります。


心の悪を止める「防非止悪」とは

2005-11-21 | 手引書④

 『御義口伝』に、
 「今日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉り、権経は無得道、法華経は真実と修行する、是は戒なり、防非止悪(ぼうひしあく)の義なり」(御書1756)
と仰せであります。「防非止悪」は、御本尊様に御題目を唱えるところにあり、他宗他門で説く爾前権教は成仏できず、法華経に於いて真実の修行があり、その修行をすれば、非を防ぎ悪を止める「防非止悪」になるということです。勤行唱題をするところに心の悪を止めることが出来ます。悪い気持ちが生じたときに、すかさず御本尊様に向かうことが大切です。その姿勢が「防非止悪」になります。
 この心の悪は正しい判断を狂わす本能的な欲望であり、自分自身の命から師子身中の虫となって生まれるものと、周囲の人や周りの耳に入る情報を縁として命に生まれる場合があります。良心の呵責が機能せず、清浄な命が弱まり濁っておれば、心の悪に負け、善悪の判断が出来なくなり不祥事を起こすのです。悪を起こす人は必ず以上の心の働きがあります。この心の働きを勤行唱題に於いて、明らかに自分自身を常日頃から分析する気持ちを具えていることが理想的です。勤行唱題で「防非止悪」という気持ちを養うことが出来ます。
 『第六十七世日顕上人』は、
「戒とは、申すまでもなく『防非止悪』の義であります。悪には、基本的なものとして、殺生・偸盗・妄語・邪婬の四大罪があり、また、十悪の業としては、さらにこれに、悪口・両舌・綺語と貪・瞋・癡の六を加え、さらに、その程度によって、上品、中品、下品等に分けるのであります」
と御指南であります。「悪」には以上のような意味があることを仰せです。更に日顕上人は、
「五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや」との御文は、小乗・大乗の広汎な戒の『防非止悪』と『衆善奉行』の功徳をことごとく妙法五字の本尊に納めているのであるから、妙法五字を受持するところに、あらゆる悪行の罪障消滅と、あらゆる善行の基本が具わるといわれます」 
と御指南の如く、御本尊様を受持し信行するところに悪事を防ぎ止めることができます。そして日顕上人は、
「戒ということは『防非止悪』、要するに悪を止め、また善を勧めるという、三大秘法を受持し、自行化他の広宣流布に向かって精進することが善ならば、一切の謗法を止めていくというところに、止悪の姿があるわけであります」
と仰せであり、「防非止悪」は一切の謗法を止めて行くところに、止悪の姿があることを御指南です。そして三大秘法の御本尊様を受持して自行化他の広宣流布に精進することが「善」になります。
 御本尊様に報恩感謝申し上げるところに、心の悪を止める「防非止悪」があります。御本尊様への御給仕が報恩感謝することです。


悪鬼入其身とは

2005-11-21 | 手引書④

 時として、人間がする事とは思えない事件があります。まさしくそれが「悪鬼入其身」した姿です。外見は人間であっても、命が人間ではなく地獄・餓鬼・畜生といった三悪道の生命になっています。悪い鬼が人間の身に入ったような言動をとることを「悪鬼入其身」といいます。己心の魔や師子身中の虫が大きく心の中で成長すると、ある日突然に「悪鬼入其身」の生命を露顕します。分かりにくい前兆があり、信心をして勤行唱題に励むところに、人の心の微妙な変化が五感で観じられるようになります。
 「悪鬼入其身」しているのが本人に、ほとんど自覚症状はなく、端から見る人には一目瞭然です。「悪鬼入其身」と併用していわれることが「頭破作七分(ずはさしちぶ)」です。御本尊様を信じないで誹謗し悪口罵詈すると「頭破作七分」という頭が七つに割れたような精神分裂症が起きます。「悪鬼入其身」も同じ様な状態です。
 『御義口伝』に、
 「悪鬼とは法然(ほうねん)・弘法(こうぼう)等是なり。入其身とは国王大臣万民等の事なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者を怨(あだ)むべしと云ふ事なり。鬼とは命を奪ふ者にして奪功徳者(だつくどくしゃ)と云ふなり。法華経は三世諸仏の命根なり。此の経は一切諸菩薩の功徳を納めたる御経なり」(御書1762)
と仰せでありますように、日蓮正宗以外の諸宗は、悪鬼が身に入った邪師が開祖となり宗派を立てているという御指南です。悪鬼は、第六天の魔王の手先であり、利根と通力に長けておりますので、神秘的で幻想的な方法を用いて人々を「悪鬼入其身」した宗教に引き込むこともあります。このような新興宗教が氾濫しています。
 『御講聞書』に、
 「無明の悪酒に酔ふと云ふ事は、弘法・慈覚・智証等、法然等の人々なり。無明の悪酒と云ふ証文は、勧持品に云はく『悪鬼入其身(あっきにゅうごしん)』是なり。悪鬼と悪酒とは同じ事なり。悪鬼の鬼は第六天の魔王の事なり。悪酒は無明なり、無明即魔王、魔王即無明なり。其身(ごしん)の身とは日本国の謗法の一切衆生なり。入ると呑(の)むとは同じ事なり。此の悪鬼入る人は阿鼻(あび)に入る。さて法華経の行者は、入仏知見道故と見えて仏道に入る。得入無上道とも説けり。相構へ相構へて無明の悪酒を恐るべきなり云云」(御書1854)
と御指南の如く、「悪鬼入其身」するのは無明の悪酒に酔うからであります。つまり、私達の奥に潜む「元品の無明」という根本的な煩悩が私達の心を酔わせ、正しい判断力を狂わせます。「悪鬼入其身」を誘発させる「元品の無明」は信心をしなければ、その存在を完全に罪障消滅させることが出来ません。地道な信心修行で「元品の無明」を「無明即法性」という仏様の悟りに変えることが出来ます。
 『第六十七世日顕上人』は、
 「濁劫悪世の中には、多く諸の恐怖有らん。悪鬼其の身に入って、我を罵詈毀辱せん」という文からは、三類の強敵が法華経の修行者を誹謗するところの理由が挙げられます。そして、その大きな理由は「悪鬼入其身」ということで、「悪鬼」には第六天の魔王、乃至その眷属としての魔鬼が存在するわけですが、悪鬼が入ると人間が人間でなくなります」
と仰せです。三類の強敵も「悪鬼入其身」した姿であるということです。「悪鬼入其身」にならないようにするには、正しい信心を持続させることです。心の根本的な迷い、煩悩の根本「元品の無明」を勤行唱題によって菩提へ転じる修行が大事です。


現代は五濁悪世の末法時代

2005-11-21 | 手引書④

 『御義口伝』に、
 「日蓮等の類(たぐい)は此の五濁を離るゝなり。我此土安穏(がしどあんのん)なれば劫濁に非ず、実相無作の仏身なれば衆生濁に非ず、煩悩即菩提・生死即涅槃の妙旨なれば煩悩濁に非ず、五百塵点劫より無始本有の身なれば命濁に非ざるなり。正直捨方便但説無上道の行者なれば見濁に非ざるなり。所詮南無妙法蓮華経を境として起こる所の五濁なれば、日本国の一切衆生五濁の正意なり」(御書1729)
と仰せであります。「五濁」とは劫濁(こうじょく)・煩悩濁(ぼんのうじょく)・衆生濁(しゅじょうじょく)・見濁(けんじょく)・命濁(みょうじょく)です。
 故に末法はあらゆるものが汚れ濁っている時です。この濁りが様々なものに影響をもたらし、社会を混乱させています。時には自分自身の心に濁りが生じ、また家族に生まれ、更に赤の他人に私達の関係ないところで濁りが生じています。濁りの輪が広がり、地域単位・県単位で、更に国という大きな輪となって、命の濁りが蔓延する時代が、今の末法時代です。
 この心の濁りは、貪瞋癡の三毒に通じるものがあり、御本尊様を受持し御題目を唱えなければ濁りを浄化することは出来ません。日蓮大聖人は「日蓮等の類は此の五濁を離るゝなり」と仰せのように、御本尊様を信じ御題目を唱えるところ五つの濁りから離れることが出来ます。生命の濁りに汚染されている人や汚染されかけている人には、信じ難く疑いが頭に過(よ)ぎると思いますが、末法の仏様が私達に仰せ下さっていることです。 
 五濁の「劫濁」が、時代の濁り・環境と社会に悪い現象が重なり起きること。「衆生濁」が、人間そのものの濁り、人間の身心が共に衰えること。
「煩悩濁」が、貪・瞋・癡・慢・疑の五鈍使(ごどんし)に支配された本能的な迷いのこと。
「見濁」が、思想の濁りで、身見・辺見・邪見・見取見・戒禁取見の五利使(ごりし)をいいます。
「命濁」が、生命自体の濁り、生活が乱れ寿命が短くなることです。
 以上の五濁は、毎日の勤行唱題によって個々の濁りを清め、更に周囲の人が出す濁りは折伏によって食い止めることが出来ます。五濁を本当に防ぐには日蓮正宗の信心しかありません。信心をしなければ、知らぬ間に五濁に汚染されることを認識すべきです。これは方便でも嘘でもありません。仏様が仰せになっていることです。疑い信じない人は、すでに五濁に汚染されてます。
 信心を遠ざけようとする人は、信心の他に人生の目的と欲望を擽(くすぐ)られる何かがあるはずです。その存在を今一度冷静に客観的に見直し、信心を見つめてみることもよいのではないでしょうか。信心は人生の目的や欲望・願望における、私達の見えない盲点を補う力を身に付けるのです。勤行唱題で見えない盲点を明らかにし、安穏な生活へと御本尊様が導いて下さいます。
 世間の多くの人は、濁った色眼鏡をかけて生活している人が多い世の中です。
 濁り曇ったメガネでは、信心をし御本尊様に御題目を唱えなければ、世の中をはっきり見ることは出来ません。寺院に参詣して、五つの濁りを止める知識を身に付けましょう。


私達が積んだ功徳を「回向」するには

2005-11-21 | 手引書④

 「回向」とは、信心をする上で大切なことです。「回向」には二つの意味があり、一つは御先祖様に御塔婆を建立して、私達が信心で積んだ功徳を回向し追善供養することと、もう一つは折伏における衆生救済に於いて、信心で培った智慧を施していくことです。他の人に功徳を回り向かわせ、成仏の境界へと導いていきます。更に施したことにより、自分自身に徳が回りめぐってかえってくるのであります。
 「回向」には三種回向という菩提回向・衆生回向・実際回向があり、三種回向を更に十種類に分類した回向があります。また菩薩の五十二位に十回向があります。これは別教における菩薩行の位です。その「十回向」とは、
 ①救護一切衆生離相回向心(くごいっさいしゅじょうりそうえこうしん)が、無相の心をもって六道に入り、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六度等を修行して一切衆生を救護しながら衆生の相を離れる位です。
 ②不壊回向心(ふええこうしん)は、三宝のもとで何ものにも乱されず壊れない信を得て、深く諸法に通達し、一切法の空理を直観する位です。
 ③等一切仏回向心(とういっさいぶつえこうしん)は、三世の仏法をあらゆる時に修行する位です。
 ④至一切処回向心(しいっさいしょえこうしん)は、一切の仏所に至り三世の諸仏を恭敬供養する位です。
 ⑤無尽功徳蔵回向心(むじんくどくぞうえこうしん)は、尽きることのない善根を回向して仏事を行い、更に尽きることのない功徳を得る位です。
 ⑥随順平等善根回向心(ずいじゅんびょうどうぜんこんえこうしん)は、平等に善根を施し、平等に衆生を利益し、善悪不二を観ずる位です。
 ⑦随順等観一切衆生回向心(ずいじゅんとうかんいっさいしゅじょうえこうしん)は、一切衆生の行為を善悪不二・一相と観ずる位です。
 ⑧如相回向心(にょそうえこうしん)は、中道の真理を修習して諸法の真実の相を照見する位です。
 ⑨無縛解脱回向心(むばくげだつえこうしん)は、深く智慧の門に入り、一切諸法の差別相と平等相とをあまねく了知して、一切の執着を離れる位です。
 ⑩法界無量回向心(ほうかいむりょうえこうしん)は、無量無辺の智慧をもって一切世間を照見し、一切法において無礙自在を得、平等正観を成就する位です。以上が「十回向」の名称と意味になります。
 「回向」については、十回向を理解し回向の意義を考え直してみるとよいでしょう。更に功徳を他に施すことで充実します。
 毎月寺院で行われる一日の永代経では、御塔婆を建立し御先祖様に、私達が信心で御本尊様から頂いた功徳を回向して施すことが出来ます。その他に、御先祖様の忌日法要(きにちほうよう)や祥月命日(しょうつきめいにち)と命日には寺院へ参詣され、御塔婆を建立し御住職様と一緒になって御本尊様に御経と御題目を唱え、精霊台で御焼香をすることが、御先祖様への回向になり、成仏の縁を結ぶことが確実になります。そしてお墓があれば、本堂でのお詣りの後に墓参をして御塔婆をお墓に立て、方便自我偈と御題目を唱え、御線香を供えてお詣りすることが大事です。御先祖様もさぞかし御満悦のことと思います。日々の信心修行では、「回向」を心がけましょう。