正林寺法華講員手引書

『折伏・家庭訪問・教化育成・法統相続・教学研鑚・邪義破折・支部組織の充実強化に活用』 法華講正林寺支部 正林編集部

文証・理証・現証の「三証」

2005-11-21 | 手引書⑩

 正しい宗教を明らかにし信じる上で、大事なことが「三証」です。「三証」とは、文証・理証・現証であり、正しい宗教か、間違った宗教かを判別するときに必要な原理です。
 文証とは、文書・記録などの証拠。一つの教義または主張がいかなる文献に依っているかを調べて判定の基準とすることです。
 理証とは、道理・筋道が通っていること。一宗の文証・教義が道理にかない、適しているか調べて判定する基準。
 現証とは、現実の証拠。一つの教義を実践するにあたり、そこに説かれる内容が現実社会や生活に証明されるかどうかを判定する基準。
 まず文証について、日蓮大聖人は『法華真言勝劣事』に、
  「文証の所出を知らざる我意の浮言ならば之を用うべからず」(御書307)
と仰せです。文証が不的確な教えを信じれば、自ずと不幸になります。文証の原点がいい加減な教えは、信用しないことが鉄則です。信心を知らない多くの人は、文証もなく、また文証が存在しても、その文証の出来上がった背景を知り疑うことなく、信じるために不幸になるのです。日蓮正宗の信心をすれば、この裏側に潜んだ部分に着眼し、日蓮大聖人の仰せになるままに、文証となる文献の存在を明らかに見ていくのです。その明らかに見る眼が、直ちに成仏の因に結びつくのであります。そしてこの眼を施すことが折伏へと通じていくのです。更に『聖愚問答抄』に、
  「経文を手に把(と)らずば用ゐざれとなり。天台大師の云はく『修多羅と合する者は録して之を用ひよ。文無く義無きは信受すべからず』文。釈の意は経文に明らかならんを用ひよ、文証無からんをば捨てよとなり。伝教大師の云はく『仏説に依憑(えひょう)して口伝を信ずること莫(なか)れ』文。(中 略)経文にも論文にも法華に対して諸余の経典を捨てよと云ふ事分明なり」(御書389)
と日蓮大聖人は、正法正師の引用文をもって、文証無き主張を信じてはいけないと御指南です。文証でも人師のものは疑い、仏様の説かれる文証を敬い信じていくことが大事です。そこに本当の幸せを築く原因があります。 
 理証となる道理については『四条金吾殿御返事』に、
  「仏法と申すは道理なり。道理と申すは主に勝(か)つ物なり」(御書1179)
と仰せのように、文証が存在しても道理に適っていなければ劣り、道理に適った教えが勝れているのであります。『破良観等御書』に、
  「いづれも仏説に証拠分明(ふんみょう)に道理現前ならんを用ふべし、論師・訳者・人師等にはよるべからず、専(もっぱ)ら経文を詮とせん」(御書1078)
と御指南のように、仏様ではない、人のいう文証には、道理があわないものがあるので、釈尊の説かれた経文に依るよう仰せです。仏様が説かれたところに、三世に渡る厳然とした道理があります。人師には誤り多きことを『曽谷殿御返事』に、
 「但し師なりとも誤りある者をば捨つべし。又捨てざる義も有るべし。世間仏法の道理によるべきなり。末世の僧等は仏法の道理をばしらずして、我慢に著(じゃく)して、師をいやしみ、檀那をへつらふなり」(御書1039)
と仰せです。邪宗に君臨する僧侶の心理を鋭く見抜かれた大聖人の御指南です。
 現証については『三三藏祈雨事』に、
  「日蓮仏法をこヽろみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず」(御書874)
と御指南のように、如何に文証があり、理証が存在しても、文証と理証を証明する、現証が厳然と存在しなければいけません。現証が存在して信じることが出来ます。
 日蓮大聖人の仏法は、文証・理証・現証という「三証」に則った教えです。