父の日の家出でしまま帰らざる 父の日の父とは俳人以外の者 父の日や書を捨てよ町へ出よういまも 父の日や父はひとりで消え去るのみ 父の日やまさか海の見える競馬場 父の日やあの時君は若かった 父の日の父真っ先に捨てられて 父の日や軍人恩給明細書 父の日や父の命日知らぬまま 父の日の父を看取らずワタクシも 父の日の俳句はまたも落選す 父の日の野良犬街に見当らず 父の日やまさかアスペルガー症候群 父の日の関悦史に俳句は無理だらう 菊池寛の「父帰る」父の日は読まぬもの 父の日や生涯未婚の幸多し クレイジーケンバンド父の日は父でゐる
「俳句は自由詩に比べ、世界とむき出しで対峙せずに済ませることも容易に出来る。結社や師弟といった制度を引きずり、前近代的技芸の枠に引きこもれるからばかりではない。説話論的持続を最低限に減殺し、断裂・飛躍を呼び込む形式自体に『世界対私』という枠組みを明るみへと溶融させる契機があるからである。それを初心者向け教育法に仕立てたのが高濱虚子の『花鳥諷詠・客観写生』で、これはいわば出来合いの自我・感情を去勢・無頭化した上で詠み手の真の主体を『花鳥』の擬似世界へと開かせるカリキュラムである。わずかな例外を除いて詩人・小説家の俳句が陳腐なのはこれに相当する手続きを怠り、既成の自我にじかに語らせた『短い短歌』にしてしまうからだ。(…)大我なり他界なりへと主体が開けていれば良い。自我が直接対決しないことがそのまま世界への向かい合いとなり得る回路もこの形式にはおそらくある。」 関悦史『現代詩読者から俳句作者への斬進的横滑り』(現代詩手帖2010・6月号)
俳句形式による詩表現は【結社】とその集合体としての【協会】【俳句ジャ-ナリズム】によって社会(他者)に伝達周知される。現代詩と違って、個体表現は結社制度によって、技術的かつ内容的にいったん検閲された上で、普遍化されるということである。現に、俳句の場合、自立した俳人として認められるには、俳句結社(誌)という主宰者の封建的独裁を介して、結社賞や年功序列によって俳壇ジャーナリズムの土俵に乗る必要がある。その延長上に新たな結社結成ということが行われる。所謂のれん分けである。例外的に、個人の表現の質(才能)によって、俳壇に周知されることがある。関悦史もその希少な例に含まれる。その関が言う。俳句が【自由詩に比べ、世界とむき出しで対峙せずに済ませることも容易に出来る】理由として、【結社や師弟といった制度を引きずり、前近代的技芸の枠に引きこもれるからばかりではない。・・断裂・飛躍を呼び込む形式自体に『世界対私』という枠組みを明るみへと溶融させる契機があるからである。】と。つまり、俳句形式は結社制度を経ずとも、個人のまま直に表現の形式である五七五の音数律に相対することで、現代の詩表現の方法としての普遍性を獲得出来ると表明する。・・・《続く》