2006-2015 ひねくれた日常

資本主義の欲望にまみれた日常生活はとても楽しい。いつまで楽しく暮らせるのだろう?いつまでも楽しく暮らすために考えよう。

システムに組み込まれてはいけないのか?

2009年07月15日 | 身近なこと
村上春樹は「システムに加わって主体性をうしなうことは危ない」と言うようなメッセージを出しているらしい。

言われてみればそんな気もする。

でも、大部分の人間というのは、何かのシステムに加入していなければ生きていけないのではないだろうか?

例えば私達は日本の国民だから税金を払って日本の国民としての権利を守られて暮らしている。

日本という国に所属している、というのは範囲が広すぎるかもしれない。

国民として、企業や、学校や、町内会や、宗教や、ボランティアや、いろいろな集団に属して、運動会や草取りやいろいろな行事に出たりする。

そういうのはシステムとは言わないのだろうか?


からんで悪かったと思う。

システムに入ったら、主体性はある程度抑えないと勝手な人だといわれてしまうのだ。

でも、何かやる時は一生懸命やらないとだめな人だといわれるのだ。

要するにバランスなのだと思う。

要するに悪い集団に属して主体性を全部なくすのがよくないということを言いたいのだろう。



最近は不景気になって雇用が減って、派遣社員だった人たちが仕事だけでなく家まで失うという問題があった。

今は、世の中の空気を読んでみんなと同じに暮らしていると穴に落ちることがあるのだ。

「もっと勉強して、もっと世の中を見て暮らさないからだ」と言う批判は違うと思う。

世の中は、普通の人がみんなと同じことをして、普通に暮らしていけなくてはいけないのだと思う。

能力の高い、世の中を研究している学者や、世の中の目利きが出来る企業の経営者並の人だけがうまく生きていける社会と言うのはおかしいではないか。


政治が絶対にしてはいけないのは、国と言うシステムに加わっている人たちを裏切ることだ。

派遣行を規制緩和したのは、安心して信じている日本の国民を利用して裏切ったことだと思う。

サラ金を緩和して庶民が簡単に小金を借りて地獄に落ちるようになったのも政治の裏切りだと思う。

経済を発展させるために、消費者という役目の人にはもっとお金を使ってもらわなければいけないのだけど、やりすぎたのではないか。



システムに加わらずに主体性を持って生きることは孤独だ。

実際、私達はすぐに誰かと話していなければ不安になるし、何かの集団に加わると確かにある種の根源的な安心感に包まれる。

一人では弱い人間はみんなで集まって慰めあうように出来ている。

オームの信者の若者達も、仲間を求めて集まっただけなのかもしれない。

確かにシステムに加わると主体性を失いみんなと同じことをしていれば安心、と言った気持ちになると思う。

ということは、よいシステムの集団に加わることが大事なのだ。

何を信じて、誰に聞けばいいのだろう?

自分ひとりで決めなくてはいけないのだろうか?

私は自分の主体性に自信がない。

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