2006-2015 ひねくれた日常

資本主義の欲望にまみれた日常生活はとても楽しい。いつまで楽しく暮らせるのだろう?いつまでも楽しく暮らすために考えよう。

宗教って何だろう? 2

2008年03月07日 | 身近なこと
神とか仏とかそういう絶対的な存在の実在を信じることができません。

このことがネックになっていて今まで宗教に近付くことができなかったのです。

これからも、この部分だけは無理だと思う。

普通に「よりよく生きるための考え方」といったものだったら受け入れられるのにと思います。


仏教は、そもそもは釈迦が「生老病死」という人生の4つの苦をどうしたらよいのだろう、ということで考えた「考え方」だったといいます。

釈迦は「欲」が苦の原因だから「欲」を捨てなさい、と教えたのだそうです。

この段階では釈迦の教えは哲学に近いもので、考え方だったのです。

そして、この考え方は自分を救うための考え方なので「自利」と呼ばれていて、小乗仏教と言われています。

釈迦の死後、釈迦が言ったことや行ったことが、弟子によって文章化されて広められて行きました。

長い月日のうちには教えの内容はいろいろに変化して、他人のために働くことがみんなのためになる、という「他利」の教えを説く大乗仏教も生まれました。

仏教というのは適当というかなんというのか、どんどん変わってきているんですね。

仏像なんていうのも発明されてるし。

仏様というのは、死んだ人を表すのか?絶対的な存在を表すのか? 曖昧です。

そんな風にどんどん変わっていていいのか?

とも思うけど、時代に合わせて変わるのは偉いような気もする。

キリスト教は昔に決めたことを絶対としてしまったために苦しんでいる部分もあるようです。


そういうわけで、仏教には最初は絶対的な存在はいなかったようなのです。

ということは、必要だから途中で登場したのだと思うのです。



どうして絶対的な存在が必要になったのでしょう?

鎌倉時代にどんなに苦しい毎日を暮らす貧しい民でも、「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽浄土にいける。

とする、阿弥陀様におすがりする浄土教だったでしょうか、学問のない民も救ってくれる教えが登場したのでした。

貧しく忙しい民は、難しい考え方を勉強しているひまなんかないのです。

それでも救ってくださるのが仏様ってものじゃあありませんか。

(いえ、もっと前から仏様はいたと思うのですが、すごく必要を感じられる例と思って浄土宗をだしてみたのです。だから、鎌倉時代に仏様が初めて出たわけではないです。古墳時代にすでに朝鮮から仏像は伝わっています。仏教が日本に来る前から仏様はいたのでしょう。)


そうか、昔は仏様は実在を信じられたかもしれないな、と思えます。

でも、今は庶民も偉くなって理屈をこねる時代になったのです。

すんなりとは信じられない。

でも、事情が分かれば仏様に寄せた昔の人々の思いを大切にしなくてはいけないと思います。




最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
どうも、はじめまして (センターリバー)
2008-03-08 04:22:03
たまたま記事を見させていただきました。
感想→ ほのぼのとした思考の営みですね。

素朴でいい感じだったので、コメントしました。
ぜひ、たくさん記事を書いてください。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。