こういう世の中だから、うまくいかなくなって面白くない人はいっぱいいるのだと思う。
もう、何もかもいやになって、何かに怒りをぶつけたくなるのかも知れない。
人間が追い詰められた時、どういう精神状態になるのだろう。
自分が悪いのではなくて、何かが悪いんだ!と、怒りたくなるのだろうか?
みんな自分が悪いのだからと死にたくなるのだろうか?
こういう世の中で、追い詰められた時、大部分の人は、自分で出来るだけの努力をしたり、自分を責めたりするのではないかと思う。
だから、頑張る人は資格をとったりする。
どうにも駄目だと思った人は自殺する。
でも、そうではなくて少数だけど、不満を爆発させて何かを無差別に攻撃する人がいる。
性格のタイプが違うのではないか? と、思うのだ。
「そりゃあそうだ!」
みんなそう思うだろう。
ここからは、わたくしの独断と偏見と何の調査に基づく根拠もない思いつきなのだが、
人間には2種類のタイプがいるのだと思う。
1つは、力で勝ち負けをつける戦うタイプ。
1つは、道理でお互いに納得しあう、戦いを好まないタイプ。
現代社会は、民主主義が実現されて、法律も整備され、ルールに従って暮らす社会になっているので、後者の「戦いを好まないタイプ」にとって圧倒的に快適に住みやすくなっている。
昔は、もちろん力の強いものが力でねじ伏せていた。
マヤ文明が滅びたのは、スペインの力による侵略だ。
植民地政策というのも、力によるものだ。
まだ、最近まで、力による戦いで、欲しいものを手に入れるやり方は通用していたのだ。
まだ、民主主義が広まって100年にも満たないのだが、良い時代に生れて良かったと思う。
ルールに守られて、人権を保障されて、弱い人間にとっては、本当に幸せな世の中になったのだと思う。
そうなのだ、戦いを好まない弱いタイプの人間にとっては民主主義は天国であるのだ。
でも、道理を重んじなくてはいけない、みんなと仲良く協調しなくてはいけない、しっかり勉強して、真面目に働かなくてはいけない、お酒を飲みすぎてはいけない、車のスピードを出しすぎてはいけない、好きなところで煙草を吸ってもいけない、不倫をしてはいけない、動物を虐待してはいけない、電気を節約しなさい、スーパーにはマイバッグを持っていきましょう、・・・・・
あれをしてはいけない、これもいけない、こうしろ、ああしろ、と、規則がいっぱいあって、努力を強要され、民主主義の世の中でうまくやっていくのも結構大変なことではある。
その上、一番どうにもならないことは、人間を図るものさしが、学歴とか人間性とか、手っ取り早くすぐに勝負のつくものではなくなっているのだ。
弱くて、我慢強くて、ずっと歴史に埋もれて地を這って生きてきた人達の子孫にとってはとうとうやってきたチャンスの時代だ。
チャンスは平等に与えられている、勉強して良い行いをして出世することが出来るのだ。
でも、力を使って弱いものを簡単にねじ伏せてきた時代は長かったのだ。
力のある人たちにとっては、もっと簡単で、確実な、「力は強い」という実感から抜けられないのかもしれない。
複雑な民主主義のルールの中で、平和的な地味な戦いを長期にわたって続けることはつらい人も多いのだと思う。
そうしたら、直感的に「自分が悪いのじゃない」という気落ちがして、何かを攻撃したくなるかもしれない。
人間はみんな平等だという立場に立てば、ルールを守って争いをしないで暮らす暮らし方は安心で安全で、どう考えても正しくて、間違いないものに思える。
でも、正しく、間違いのないものになじめなかったらどうするのか?
力が弱くて戦いを好まず、頭が良くて道理の分かる、ルールを重んじる人たちは、世の中が悪くても、世の中が悪いとは思わない。
自分の努力が足らないとか、運が悪いとか、仕方がないとか、思うのだ。
力が強くて地味な努力を続ける暮しになじめない人は漠然と怒りをかんじるのではないか?
生物としての人間の基本の価値観は本来、「力」なのだと思うのだ。
力の声が聞こえる人にはルールは何だか分からないだろう。
道理も理屈も関係ないのだろうと思う。
力のあるものが偉いという、たった一つのルールがあるのだと思う。
そんなにはっきり自覚はないだろうし、傾向があるというくらいだと思うけど、 この人たちが、この世の中で不満を募らせると無差別殺人をするのではないかと思うのだ。
力が強くて戦いの好きな人たちは、現代社会では生きづらいし、周りに迷惑だったりするのだが、過去の長い時代、この人たちが支配者階級だったと思う。
織田信長とかヘンリー8世とか、絶対こっちのタイプでしょう。
この人たちは侮れないのだ。
最後にいうと、力に頼る人たちは、現代社会という規則に縛られたガチガチの環境に適応しにくいと思う。
環境にに適応できないと生物はだんだん淘汰されていくのだと、ダーウイン先生が進化論の中で言っているようだ。
現代社会では力人間は減っていっているのではないだろうか?
そうすると、おとなしい弱いタイプの人ばかりの世界になってしまうかもしれない。
それは究極の平和社会の実現と言うことだろうか?
それも違うような気がする。
弱いものだけでは世界を維持できないのではないかと思うのだ。
よく分からないけど、世の中の管理がいきすぎて余裕がなくなって来ていると思う。
人生の成功パターンは決まり切ってしまい、選択の幅がなくなってきている。
一回、世の中は少し壊れて、人の判断や行動に幅が持てるようになると、2種類の人間もそれぞれ生き生きと暮らせるのではないかと思うのだ。
もう、何もかもいやになって、何かに怒りをぶつけたくなるのかも知れない。
人間が追い詰められた時、どういう精神状態になるのだろう。
自分が悪いのではなくて、何かが悪いんだ!と、怒りたくなるのだろうか?
みんな自分が悪いのだからと死にたくなるのだろうか?
こういう世の中で、追い詰められた時、大部分の人は、自分で出来るだけの努力をしたり、自分を責めたりするのではないかと思う。
だから、頑張る人は資格をとったりする。
どうにも駄目だと思った人は自殺する。
でも、そうではなくて少数だけど、不満を爆発させて何かを無差別に攻撃する人がいる。
性格のタイプが違うのではないか? と、思うのだ。
「そりゃあそうだ!」
みんなそう思うだろう。
ここからは、わたくしの独断と偏見と何の調査に基づく根拠もない思いつきなのだが、
人間には2種類のタイプがいるのだと思う。
1つは、力で勝ち負けをつける戦うタイプ。
1つは、道理でお互いに納得しあう、戦いを好まないタイプ。
現代社会は、民主主義が実現されて、法律も整備され、ルールに従って暮らす社会になっているので、後者の「戦いを好まないタイプ」にとって圧倒的に快適に住みやすくなっている。
昔は、もちろん力の強いものが力でねじ伏せていた。
マヤ文明が滅びたのは、スペインの力による侵略だ。
植民地政策というのも、力によるものだ。
まだ、最近まで、力による戦いで、欲しいものを手に入れるやり方は通用していたのだ。
まだ、民主主義が広まって100年にも満たないのだが、良い時代に生れて良かったと思う。
ルールに守られて、人権を保障されて、弱い人間にとっては、本当に幸せな世の中になったのだと思う。
そうなのだ、戦いを好まない弱いタイプの人間にとっては民主主義は天国であるのだ。
でも、道理を重んじなくてはいけない、みんなと仲良く協調しなくてはいけない、しっかり勉強して、真面目に働かなくてはいけない、お酒を飲みすぎてはいけない、車のスピードを出しすぎてはいけない、好きなところで煙草を吸ってもいけない、不倫をしてはいけない、動物を虐待してはいけない、電気を節約しなさい、スーパーにはマイバッグを持っていきましょう、・・・・・
あれをしてはいけない、これもいけない、こうしろ、ああしろ、と、規則がいっぱいあって、努力を強要され、民主主義の世の中でうまくやっていくのも結構大変なことではある。
その上、一番どうにもならないことは、人間を図るものさしが、学歴とか人間性とか、手っ取り早くすぐに勝負のつくものではなくなっているのだ。
弱くて、我慢強くて、ずっと歴史に埋もれて地を這って生きてきた人達の子孫にとってはとうとうやってきたチャンスの時代だ。
チャンスは平等に与えられている、勉強して良い行いをして出世することが出来るのだ。
でも、力を使って弱いものを簡単にねじ伏せてきた時代は長かったのだ。
力のある人たちにとっては、もっと簡単で、確実な、「力は強い」という実感から抜けられないのかもしれない。
複雑な民主主義のルールの中で、平和的な地味な戦いを長期にわたって続けることはつらい人も多いのだと思う。
そうしたら、直感的に「自分が悪いのじゃない」という気落ちがして、何かを攻撃したくなるかもしれない。
人間はみんな平等だという立場に立てば、ルールを守って争いをしないで暮らす暮らし方は安心で安全で、どう考えても正しくて、間違いないものに思える。
でも、正しく、間違いのないものになじめなかったらどうするのか?
力が弱くて戦いを好まず、頭が良くて道理の分かる、ルールを重んじる人たちは、世の中が悪くても、世の中が悪いとは思わない。
自分の努力が足らないとか、運が悪いとか、仕方がないとか、思うのだ。
力が強くて地味な努力を続ける暮しになじめない人は漠然と怒りをかんじるのではないか?
生物としての人間の基本の価値観は本来、「力」なのだと思うのだ。
力の声が聞こえる人にはルールは何だか分からないだろう。
道理も理屈も関係ないのだろうと思う。
力のあるものが偉いという、たった一つのルールがあるのだと思う。
そんなにはっきり自覚はないだろうし、傾向があるというくらいだと思うけど、 この人たちが、この世の中で不満を募らせると無差別殺人をするのではないかと思うのだ。
力が強くて戦いの好きな人たちは、現代社会では生きづらいし、周りに迷惑だったりするのだが、過去の長い時代、この人たちが支配者階級だったと思う。
織田信長とかヘンリー8世とか、絶対こっちのタイプでしょう。
この人たちは侮れないのだ。
最後にいうと、力に頼る人たちは、現代社会という規則に縛られたガチガチの環境に適応しにくいと思う。
環境にに適応できないと生物はだんだん淘汰されていくのだと、ダーウイン先生が進化論の中で言っているようだ。
現代社会では力人間は減っていっているのではないだろうか?
そうすると、おとなしい弱いタイプの人ばかりの世界になってしまうかもしれない。
それは究極の平和社会の実現と言うことだろうか?
それも違うような気がする。
弱いものだけでは世界を維持できないのではないかと思うのだ。
よく分からないけど、世の中の管理がいきすぎて余裕がなくなって来ていると思う。
人生の成功パターンは決まり切ってしまい、選択の幅がなくなってきている。
一回、世の中は少し壊れて、人の判断や行動に幅が持てるようになると、2種類の人間もそれぞれ生き生きと暮らせるのではないかと思うのだ。