獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

対華21箇条要求について その2)

2024-03-24 01:22:34 | 中国・アジア

「21ヵ条要求問題」についてです。

いやあ、ずいぶん昔に日本史の授業で習いましたね。
第一次世界大戦がヨーロッパで繰り広げられているときに、日英同盟を口実にドイツに宣戦布告して、ちゃっかりドイツの利権を奪ったという火事場泥棒のような行為。
でも、最近まで知りませんでしたが、元老山県は、意外にもこの21ヵ条の要求には反対だったとのことです。
週刊ポストでの連載「逆説の日本史」で、井沢元彦さんがそんなことを書いていましたね。

d-マガジンで読みました。
かいつまんで、引用します。


週刊ポスト202024年3月8・15日号

逆説の日本史
井沢元彦
第 1410 回

近現代編 第13話
大日本帝国の確立Ⅷ
常任理事国・大日本帝国その⑥

優秀な外務官僚だった加藤高明はなぜ
「悪名高い外交」を行なったのか?

(つづきです)

「寄せ鍋」の国ニッポン

しかし、この『逆説』シリーズの愛読者なら、歴史学者が「合理的に説明するのは難しい」と嘆く問題も容易に説明できることをご存じだろう。「人間が不合理に動くときは、その背景に宗教がある」という法則さえ知っていれば、この問題も簡単に説明できる。
たとえば、江戸時代の日本にイタリア人のキリスト教宣教師ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッチがやってきた。日本にキリスト教徒が「侵入」すれば過酷な拷問によって棄教を迫られ、拒否すれば処刑される。それは周知の事実であった。そんな国へ頼まれもせずにわざわざ行くことは、人間にとってもっとも大切な自己の生命をないがしろにする行為である。すなわち、「合理的に説明するのは難しい」。しかし、シドッチがキリスト教の宣教師であり、キリスト教とはどのような教えか基本的知識さえあれば、彼がなぜ合理的に考えれば「愚行」としか言えない行動に出たか説明できる。神の教えを広めるのは神父としての使命であり、死を恐れてはならないからだ。
また江戸時代の多くの武士は、黒船でやってきた西洋人が火縄銃とくらべて格段に性能の優れたライフル銃を使うのを見ても、なかなかそれを採用しようとはしなかった。なぜそんな中学生でもわかる理屈がわからなかったのかを「合理的に説明することは難しい」。しかし、江戸時代の武士は基本的に朱子学(儒教)という宗教の信者であり、祖法(先祖の決めたルール)はみだりに変えてはならないという信仰を持っていたという基本知識さえあれば、この問題も簡単に説明できる。同じ幕末に日本と長い間友好関係にあったオランダが「鎖国は危険、開国すべきだ」と国王の名をもって勧告してくれたときも幕府はその勧告を謝絶というか門前払いにしたのだが、そのオランダ国への返書のなかにも「祖法は変えられない」という文言がちゃんとある。にもかかわらず、これまでの日本の歴史教科書にはその肝心なキーワード「祖法」がまったく載せられていなかった。歴史学界あるいは多くの歴史学者が宗教を無視して歴史を分析し、その宗教を無視することが科学的だという愚劣としか言いようのない考え方にとりつかれているからである。
種子島に鉄砲が伝来したとき多くの日本人がそれに飛びついたのに、逆にライフル銃を見たときなぜ多くの日本人は無視しようとしたのか? 江戸時代の最初に、徳川家康が儒教を武士の基本教養にしたからである。そして日本の近代化、さらには中国・朝鮮の近代化を徹底的に妨げたのが、この「祖法」である。残念ながら、宗教を徹底的に無視する日本の歴史学界はそれがわかっていない。だから、明治になって岩倉具視を団長とする欧米使節団がなぜ1年10か月あまりもかけて洋行していたのかも「合理的に説明することは難しい」。しかし「人間が不合理に動くときは、その背景に宗教がある」という法則を知っており、時代時代を動かした宗教の基本的知識さえあれば、容易に説明がつく。岩倉を朱子学の呪縛から解き放つためである。
この「岩倉問題」について、誇張だと思った人、あるいは素人がなにを言うかと思った歴史学者の先生方、そういう方々には、『コミック版 逆説の日本史 幕末維新編』(小学館刊)を読んでいただきたい。別にぜひとも金を出して買えとは言わないが、立ち読みでは無く、全部を読んでいただきたい。そうすれば、私の言うことが誇張でもなんでも無く、歴史学者の先生方も含めて「自分がいままでいかに歴史を知らなかったか」という冷厳なる事実に気がつくはずである。
ただ、日本史が他の世界史にくらべてわかりにくい点はある。西洋史ならばギリシア以前はともかくそれ以後はキリスト教を押さえておけばいいし、中国史、朝鮮史も基本は儒教でバリエーションとしての朱子学を学べばいい、中東史ならイスラム教を知っていれば大丈夫だ。しかし、日本は「寄せ鍋」の国だから難しい。仏教も儒教も取り入れたが、「日本風」だ、時代時代で「流行」も違う。その奥底にあるのは芥川龍之介が短編小説『神神の微笑』で指摘した「造り変へる力」で、では「造り変へる」主体はなにかと言えば、天皇信仰と怨霊信仰である。これは二つの信仰が対立しているというより同じカードの裏と表で、キリスト教で言えば神と悪魔の関係に似ている。中世ヨーロッパでは国民すべてが神を信仰しているのに、なぜ疫病や戦争といった災厄が起こるのか、その理由を悪魔や魔女がこの世を乱して いるからだとした。日本も同じで、神の子孫である天皇が支配している以上災厄は起こらないはずだが、実際には起こる。それはこの世で満たされず、あの世で魔縁と化した怨霊が世を乱しているからだ。だが、そうした怨霊も丁重に鎮魂すなわち慰霊をすれば、怨霊変じて御霊つまり「よい神様」になってくれる。だから平安時代の人間は大怨霊と化した(みなした)菅原道真を天神に祀り上げ、丁重に慰霊した。それゆえ「天神様」は学問の神様として尊敬されるようになった。
そういう信仰があるからこそ、天皇家は平安時代末期に大怨霊と化した崇徳上皇の「天皇家を没落させ民をこの国の王とする」という呪いが実現して、朝廷が幕府に権力を奪われた、と考えていた。合理的に考えるなら、天皇家がケガレ忌避思想の影響で軍事や警察業務から手を引き、その結果それを担う武士たちに政権を奪われたのだが、宗教的には朝廷勢力は権力喪失の原因を崇徳上皇のタタリだと考えていたのである。
だからこそ幕末、孝明天皇崩御後に皇太子祐宮(さちのみや)は直ちに即位せず、崇徳上皇御陵に勅使を派遣しこれまでの罪を詫びた。その宣旨が読み上げられた日(崇徳上皇の命日)の翌日に正式に即位した。直後に天皇は、崇徳上皇の神霊を輿に乗せて京都に帰らせ神として祀った。それがいまも京都市上京区東飛鳥井町にある白峯神宮である。そして天皇がこの白峯神宮を直接参拝した翌日、はじめて元号は慶応から明治に変えられた。念のためだが、これは宮内庁の公式記録にもある歴史上の事実である。そればかりでは無い、崇徳上皇八百回忌にあたる1964年(昭和39)9月21日、昭和天皇は弟宮の高松宮を勅使に同行させ四国の崇徳天皇陵を参拝させた。歴代天皇の命日には宮内庁職員が御陵を代参するが、それに皇族が付き添うことは異例中の異例である。おそらく、翌月に迫っていた東京オリンピック(第18回)の成功と国土の安寧を祈られたのだろう。このことも当日の新聞に載っている事実である。
そういう国であるからこそ、日清・日露戦争で大日本帝国のために死んだ「十万の英霊」の存在がいかに重要なものかわかるだろう。江戸時代初期、明暦の大火でも十万人の人間が死んだが、これは被災者である。それとはまったく違い、この十万人の犠牲者は天皇のために自らの意思で命を捧げた人間である。前回も述べたように「この死は絶対に無駄にしてはならない」のだ。
そして、なぜそうなるのかもおわかりだろう。その死を無駄にしたら 十万の英霊は十万の怨霊となり、あらゆる災厄をこの国にもたらすからである。
〈以下次号〉

 

 


解説
「人間が不合理に動くときは、その背景に宗教がある」という法則さえ知っていれば、この問題も簡単に説明できる。

ここは重要ですから、覚えておきましょう。


そういう国であるからこそ、日清・日露戦争で大日本帝国のために死んだ「十万の英霊」の存在がいかに重要なものかわかるだろう。(中略)この十万人の犠牲者は天皇のために自らの意思で命を捧げた人間である。前回も述べたように「この死は絶対に無駄にしてはならない」のだ。
そして、なぜそうなるのかもおわかりだろう。その死を無駄にしたら 十万の英霊は十万の怨霊となり、あらゆる災厄をこの国にもたらすからである。


この井沢さんの主張には、学ぶところが大きいです。

 


獅子風蓮