というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。
(目次)
■一杯目の火酒
□二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
□五杯目の火酒
□六杯目の火酒
□七杯目の火酒
□最後の火酒
□後記
一杯目の火酒
3
__おっ、やっと、酒がきた。遅くなって申しわけない。……と、ぼくが謝まる筋合いじゃないけど、ね。
「そう、仕方ない」
__きっと、そのレモンを、カリフォルニアから輸入してたんだろうね。
「フフフ。あまり面白くないけど、そうかもしれないね」
__なるほど。そうやって、大量にレモンを絞り込むところを見ると、酒を呑むというより、酒割りレモンを呑むという感じなのかな。
「うん、あまり強くないから、あたし」
__いつもウォッカを呑んでいるの?
「そうでもないんだけど」
__ウォッカ・トニックじゃないときは、何を呑んでるのかな。
「ふだんはね、ワイン。ワインじゃなければウォッカということにしてるんだ」
__ワインが好きなわけ?
「どうなんだろう。ワインなら呑みやすいということなのかな」
__ウィスキーとかビールとかは全然やらないの?
「うん、苦いだけで、ちっともおいしくない」
__ワインはおいしい?
「おいしいかどうかわからないけど、ワインなら呑めるんだよね、これが」
__でも、藤圭子にワインというのは、何かそぐわない気がするな。
「そうかなあ……だったら、 何だったらいい?」
__そうだなあ……そう言われてみるとわからないもんですねえ。日本酒というのも、いかにもという感じだし、焼酎というわけにもいかないし、ブランデーもバーボンもあまり似合わないし……。
「らしい酒、なんてないんだよ」
__そうかもしれない。あなたが酒を呑むということ自体が、どこかそぐわない気がするし、かといって呑まないと言われたら、ほんとかいって言いたくなるだろうし、まったく不思議ですね。
「不思議でも何でもないけど、らしいとか、らしくないとか、みんなに勝手に決めつけられちゃうんだよね、あたしたちって」
__わずらわしい?
「仕方ないと思っているから」
__では、まず、乾杯ということにしますか。何に乾杯だか、よくわからないけど。
「うん」
__今夜はよろしく、乾杯!
「では、こちらも、あらためて……初めまして!」
__いや、それは違うんだ。
「えっ?」
__それは違うんですよ。
「何が?」
__初めてじゃないんです。
「初めてじゃない?」
__そう、初めてじゃないんだな、藤圭子さんとお会いするのは。
「ああ、そうか。それは、そうだよ。このあいだ、偶然、銀座で会っているからね。でも、こうやって、あらためて会うのは初めてだから」
__いや、それが違うんだ。
「どう違うの」
__このあいだ、銀座の酒場で会ったのが初めてじゃないんですよ。
「ほんと?」
__その前に一度、会ってるんです。
「冗談じゃなくて?」
__もちろん。
「……」
__あなたと、一度、しっかり会ったことがあるんだなあ。
「どこでだろう……わからない」
__わからない?
「わからない」
__当然だけどね、わからなくて。
「どこで会ったの?」
__どこでしょう。……なんて、クイズごっこをしてもしようがないけど……パリで。
「パリ?」
__そう、パリ。
「いつ?」
__5年前になるかなあ。
「5年前に……パリで……ほんと?」
__ほんとに。嘘じゃない。5年前の冬、パリに行かなかった?
「えーと、5年前……。うん、確かにパリへ行った」
__中年の男性ひとり、あなたと同じくらいの年恰好の女の子、それとあなた。3人だったよね。
「うん、そう、間違いない。そのとき、会ってるの? ほんと? 沢木さんもパリにいたの? 旅行か何かで?」
__旅行といえば旅行なんだけど、1年もいたから、旅行という感じじゃあなくなっていましたけどね。
「1年もパリにいたの」
__あっ、そうじゃないんだ。パリにだけいたわけじゃない。香港から始まって、東南アジア、インド、中近東、地中海沿岸、スペイン、フランスと転々としているうちに、1年が過ぎていたということだったんで……。
「仕事で、そんなにいろいろの国を旅行していたの?」
__いや、仕事じゃなかった。
「それじゃあ、遊び?」
__うーん、何と言ったらいいのかな。遊びには違いないんだろうけど……もう少し、切実な感じはあった。まあ、日本を出たかったんだろうな。日本を離れたかったんですね、どうしても。
「なぜ? どうして離れたかったの?」
__それを説明していると、一晩中かかるかもしれないから。
「あたしは構わないけどな」
__こっちが構う。そんなことしてたら、あなたから何も聞けないうちに、夜が更けてしまう。
「そっちの話の方が、よっぽど面白そうだよ」
__これはあなたに対するインタヴューなんだから……。
「インタヴューなんてつまらないよ、やめてそっちの話を聞かせてよ」
__困りましたね……まあ、どうでもいいんだけど……えーと、どこまで話は進んでたんだっけ?
「5年前の冬、パリで会ったことがあるって」
__そう、そうなんだ。転々としているうちに、パリに辿り着いたわけですよ。着いたときには、もう疲労困憊していたし、金もほとんどなくなっていたし、精神的にもかなり、そこここがほころびていてね、日本に帰ろうかなと、ふと思いはじめていたんですね。しかし、とりあえず、目的地のロンドンまで行き、オランダやドイツを廻って、またパリに戻ってきた。そこでさすがに終わりにしようと思って、有り金をはたいてパリの裏町で安いアエロフロートの航空券を買った、日本までの、ね。何万円とかいう、3万だったか5万だったか、とにかくベラ棒な安さなんだけど、それがひどいチケットでね。チケットに他人の名前が書き込んである。しかも女の名前なんですよ。万一、空港でチェックされて、乗れないようだったら、金は返してくれるというので買ったんだけどね。
「そんな切符があるの……」
__パリに飛行機で来て、金がなくなって、帰りのチケットを売り払ったりする奴が結構いたんですよ、当時は。そのチケットの売買をしてなにがしかを儲けてる奴が、これまたいた。
「面白いね」
__そのブローカーが言うには、オルリー空港はチェックがきつくないんで他人名義のチケットでも平気だ、いままで失敗した奴はいない、なんて感じでね。でも、アエロフロートは安売りの切符を乱発していたから、当然、予約は取れないわけ。かりに取れたとしても、僕の名前で予約したらいいのか、そのチケットの名義人の名前で予約したらいいのかわからないから、同じことだったんだけど……とにかく、ドサクサに紛れた方がいいだろうとブローカーも言うので、予約なしのままオルリー空港へ行ったんですね。
「他人の切符なんかで、ほんとに乗れるの?」
__自信はなかったけど、もうそのチケットで帰らなければ、永遠に日本へは帰れないだろうなんて、悲愴な気分になってたりしてね。いま考えれば、大袈裟すぎるんだけど、そのときは必死で、とにかくオルリー空港に行ったんですよ。
「だって、最初に、パスポートと飛行機の切符を、スタンプを押してくれるカウンターの人に見せない?」
__オルリーは、そんなことしないと言うのさ。
「そうだったかなあ」
__ぼくも不安だから、ビクビクしてたんだけど、これがほんとにパスポートしか見なかったんですよ、出入国を管理しているカウンターではね。普通、ぼくたちの感覚では、飛行機会社のカウンターのオーケーがなければ、出入国の許可は下りないと思うんだけど、オルリーは違うんだ。空席待ちでも通してしまう。それを知らないもんだから、パスポートに出国のハンコをもらって、これなら大丈夫と胸をなでおろしてね、喜び勇んでアエロフロートの飛行機がとまっているゲートに急いだのさ。長い通路を歩いて……ゲートに着いたら、そこにまた飛行機会社のカウンターがあって、そこで座席の管理をしているわけ。外のカウンターでは乗れそうなことを言っていたのに、そこにいるオネエさんたちは、ひどく無情なことを言うんだよね。今日は本当の満席だから、予約の取れてない人は、まず無理だろう、なんてさ。無理だろうと言われたって、もう出国のハンコはもらってしまったんだし、こっちとしてはもう次なんかないわけさ。必死に喰い下がったんだけど、どうしようもないと冷く言われてね、ガックリしてたんだ。でも、もしかしたら、可能性はほとんどないけど、あるいは空席が出るかもしれないから待ってみるがいい、と言うので、なかば諦めつつ、カウンターの傍の椅子に腰をかけたんだ。ああ、ぼくは、これでついに日本に帰ることはできないのか、哀れパリの土塊となって果てるのか. なんて馬鹿なことを思ったりしてね。
「可哀そうに」
__ハハハッ。可哀そうというほどのことじゃないんだけど……だって、もっと可哀そうな人々もいたことだし……。
「えっ?」
__いや、まあ、いい。……とにかく、そうやって待っていたんですよね、椅子に坐って。予約のある人は、搭乗していくわけ、どんどんと。恐らく、ぼくはうらめしそうな眼つきをして見ていたと思うんだ。予約のある奴はもう来るな、って心の中で念じてたんだから。ひとりでも少なければ、それだけぼくも乗れる確率が高くなるわけじゃないですか。来るな、来るな、って念じながら、ぼんやり通路の方を眺めてたら、日本人らしい女の子が来たんですね。この野郎、こっちへ来るな、こっちへ来るな、と思ってるのに、どんどんこっちへ近づいてくる。で、何気なく、顔を見たわけですよ。すると、それが、驚くほど幼い、でも整った、人形のような顔をした少女だった。そのとき、久し振りに日本の女の子を見たような気がしたんだな。もちろん、そんなはずはないんだよ。パリでも、日本の女の子はいろいろなところで見ていたはずだから、ね。でも、なぜか、久し振りのような気がしたんだなあ。その子はね、いまもよく覚えているんだけど、黄色のオーバーを着ていたんだ。その黄色いオーバーの、胸のあたりだったかな、手のひらくらいの広さに泥のようなものがついていたんだ。どうしてそんなのがついているのか、理由はわからなかったけど、黄色のオーバーについているその泥が、鮮やかに眼に入ってきた。
「泥がねえ……」
__そう、泥。そのとき、全然、まったく脈絡なしに、その子がいじらしくなってきたんですよ。
「どうして?」
__なんと言うか……こう思ったんですね。この少女は、きっと、田舎から都会に出てきて、パーマ屋さんかなんかで働いて、何年か給料を貯めて、ようやく憧れのパリに来ることができた、アエロフロートの安いチケットを買ってね。
「どうして、田舎から出てきたって、わかるの?」
__その黄色いオーバーが、なんとなく野暮ったかった。確たる理由はないんだけど、それを見てそんなふうに思ったんだろうな。でも、その少女の顔は実に綺麗だった。色が白くて、肌のきめが細かそうで、博多人形みたいだった。その子を見たら、そうだ、ぼくも早く日本に帰らなければ、なんてますます里心がついたりしてね。
「へえ」
__その子の後にね、もうひとり同じ年恰好の少女がいて、この子も色が白くて美しい顔立ちなんだ。さらに、その後に中年の男性がいて、その人がアエロフロートのカウンターに行って、例のオネエさんたちと話そうとした。だけど言葉が通じないらしくて、ゴタゴタしてるんだよ。もしかしたら、この人はパーマ屋さんの引率の人で、言葉がわからないのかもしれないと思って、近くには他に誰も日本人はいないし、困るだろうと思って、近づいて行って、アエロフロートのオネエさんに事情を訊くと、あの人たちは予約が入っていないので、ウェイティングしてもらうより仕方ないのだが、よく理解できないらしい、というわけさ。そこで、少しおせっかいとは思ったけど、ちょっと離れたところにいた3人に近寄って、どうやら出発間際まで待つより仕方ないようですよ、と事情を説明してあげた……。
「あっ!」
__男の人は、明日から仕事だからとか、予約してあったはずだとか、いろいろ言ってたけど、ぼくには関係ないことだから、また自分の椅子に坐って、ぼんやりしてた。
「そう言えば……」
__清潔そうで、日本の女の子って綺麗なものだなあ、なんて思ったりしながら、チラチラとその子たちを盗み見してね。
「そう言えば、あのとき……」
__客はどんどん搭乗していくんですよね。こっちはそれをハラハラしながら見守るだけ。どうなることかと心配してたけど、一方では、ぼくが駄目なら、あの子たちも乗れないんだから、まあいい、あの子たちと同じパリにとどまるなら、なんて考えてもいたんだ。
「あのとき、そうか……」
__出発時刻になって、アエロフロートのオネエさんたちが呼ぶわけですよ、ぼくより前にウェイティングしてた人の名を、ひとりひとり、ね。その声が、だんだん間遠になっていって、あとひとりだけ、もうひとりは大丈夫、というふうな感じでオネエさん方が協議しつつ、呼ぶ。もう駄目かな、もう搭乗口は閉められちゃうかな、危ういぞという頃になって、ついにぼくの名が呼ばれた。喜び勇んで搭乗券をもらって入って行こうとしたら、例の女の子3人組も一緒に入ろうとして、オネエさんたちに制止されているんだよ。ぼくは搭乗口から飛行機に入りかけたんだけど、3人が途方に暮れているようなんで、引き返してオネエさんに訊くと、ぼくのが最後の一席で、この人たちにはもう今日は乗れないからと言ってるんだが、と肩をすくめるのさ。そこでぼくは、彼女の言ってることを3人に伝えて、残念だけど今日は乗れないから、次のフライトを待つより 仕方ないようだと言ったんだ。3人はぼくの話に真剣に耳を傾けていたんだけど、そう伝えるとずいぶんガッカリしたような表情になってね。ああ、可哀そうに、明日か明後日にはパーマ屋さんが始まってしまうんだろうな、なんて思いながら、じゃあ、と挨拶して、搭乗口に向かい、飛行機に乗り込もうとして、あれっ、と思ったんだよね。あれっ、もしかしたら、あの子、って思ったんだ。立ち止まって、振り向いて、もう一度、 その黄色いオーバーの女の子を見たら、やっぱり、間違いなく、藤圭子だった。
「そう言えば……あのとき……そういうことがあった。そのときの男の人の顔は……もう覚えてないけど……そう、あのとき、飛行機に乗れなくて……そうだよ、そう、若い男の人がいろいろ言ってきてくれたことがあった、うん、そうだ……そうか、そのときの男の人が、あの男の人が……沢木さんなのか!」
__そう、そのときの男、なんですね、これが。
「ほんとに!」
__ぼくはとにかく飛行機に乗れましてね。ギューギュー詰めで、便所に行くのも大変というくらいでね。それでも機内食には安物のキャビアが出て、ワインなんかでそれを食べながら、さっきは、どうして藤圭子のことを最後まで気がつかなかったんだろう、なんてことを考えてた。あまりにも、実物が清潔そうだったからかな、とかいろいろね。しかし、ぼくは藤圭子の歌が好きだったから、たった1年くらい日本のテレビを見てないからといって、わからなかったのが不思議なんだけどね。シベリアの大雪原の上を飛びながら、女の子の黄色いオーバーを思い浮べているうちに、ああ、ぼくは日本に帰るんだな、と腹の底から感じたというわけですよ。
「そうだ、あの頃、黄色いオーバー着ていたなあ。黄色というかオレンジ色というか……」
__そう、着てた。
「そうか、あのときの男の人なのか。へえ、そうなのか……でも、不思議だね。人って、そんなふうにして、知らないうちに、会ったり別れたりしているんだね。そうなんだね……不思議だね」
__ほんとに不思議ですね。
「沢木さんは、どうしてそんなに長く、あっちこっち旅行してたの?」
__自分でも、よくわかっていない部分があってね」
「自分でわからないの?」
__そうだなあ……わかっていたのは、とにかく日本を起点として、少しずつ日本から離れていこう、ということだけだったな。ひとつひとつ国境を越えて行って……そうしたら、いつの間にか パリに着いてた。
「いくつくらいの国に行った?」
__その旅では、30くらいかな。
「凄いね」
__全然すごくはないけど、一生のうちに、そう何度もできる旅じゃなかったとは思う。
「そんなに大変だったの?」
__とにかく金がなかった。有り金を全部あわせても、日本を出発するとき、2000ドル弱しかなかったからね。それで1年間、なんとか食っていたんだから……。
「そんなんで、生きていけた?」
__生きられたから、オルリー空港であなたと会えた。
「それはそうだけど」
__うん、なんとか生きていけた。ギリシャまでの生活費はとてつもなく安かったからね。宿は安いし、食物も安いし、それに……そうだ、酒もないしね。
「お酒がないの?」
__そう、インドとか中近東は、ね。酒をふたたび呑みはじめたのは、ギリシャからじゃなかったかな。そう、ウゾーという強い酒があってね。それから先は……ワインの天下だもんな、あなたの好きな。
「いろんな国のワイン、呑んだ?」
__呑んだ。それまで、ワインって、あまり好きじゃなかったんだ、ぼくは。でも、イタリアでもスペインでもポルトガルでも、もちろんフランスでも、ワイン、ワインじゃないですか。毎日呑みつづけているうちに、ないと寂しくなるようになってね。人間の味覚なんて、いい加減なものだから。
「どこのワインが一番おいしかった?」
__どこの何という銘柄、というようなワインは、まったく呑んだことがなかった。
「そうか、貧乏だったわけだからね」
__確かに、貧乏だったから。でもね、安い飯屋の定食についてくる、その飯屋独特のワインっていうのは、どこの国でも、軽くて癖がなくって、ほんとにおいしいんだ。
「へえ、そうなの」
__要するに水のようなものなんだろうからね。ボリュームで勝負してるような肉料理には、不思議と合うわけさ。
「そう……あたしも、普段は御飯に漬物があれば、ほかに何もいらない方なんだけど、ワインを呑むときは、肉が食べたいような気がするんだ。あれ、どういうんだろう。ほんとに不思議なんだけど」
__マラガ、っていう町があってね。
「マラガ?」
__マラガ。
「どこ? それ」
__スペイン。スペインの地中海岸にある、避暑地なんだけど……。
「ちょっと待って、あたし、地理に弱くて、よくわかんないんだ。地中海っていうと……」
__そうか、えーと……ここに、ヨーロッパが、こうあるとするでしょ……この辺がフランスで、ここがパリとすると……こっち側にアフリカ大陸があって、その両方にはさまれた海が、地中海。マラガは、ここがスペインとすると、このあたりかな。
「わかった。そこが、マラガ、って言うんだね」
__そう。そこでね、ほんとにおいしいワインを呑んだことがあるんだ。居酒屋なんだけどね、そこは。
「居酒屋なんてあるの、そんなとこに」
__ぼくも知らなかったんだけどね。スペインには、バルといって立ち喰いをしつつ呑む店はどこにもいっぱいあるんだけど、そこみたいな居酒屋風の呑み屋はぼくにも初めてだった。町をぶらぶらしていたら、喉が渇いてきてね。夕方から夜になろうという時間だったもんで、ジュースってわけにもいかないな、なんて思っていたら、その居酒屋が眼についたんだ。
「居酒屋って、どういう感じの店なの?」
__細長い店で、カウンターが一本、奥に走っていて、客はその前で立って呑む。日本風のバーを、もっと大きく広びろとしたもの、と言ったらいいのかな。違うところといえば、壁に洋酒の瓶が並んでいるかわりに何十本もの樽が積み上げられている、ってことかな。端から端まで、ダーツと並べてある。
「樽って、どんな樽?」
__ビア樽と同じような、木でできた古めかしいワインの樽。それが、壁際に沢山あるわけ。初めはね、どうしてそんなに並べなければいけないのか、と思っていたんだ。意味がわからなかった。日本にもよくあるじゃない、同じ銘柄のウィスキーの瓶を意味もなく無数に並べている店が。あれと同じなのかなと思っていたんだけど……。
「違ってたんだ」
__違ってた。20本か30本ある樽の中の酒は、全部、違う種類のワインだったのさ。
「全部?」
__そう、全部。樽に銘柄が書いてあって、注文すると、その樽から栓を抜いて、グラスに一杯、注いでくれるんだ。
「グラス売りをしてくれるんだね」
__そう、グラス一杯、5ペセタ。
「5ペセタって、いくらくらい?」
__当時のレートで……25円くらいかな。
「安いねえ」
__そうだね。そこには、ほんとにいろいろな種類のワインがあって、こっちはよくわからないから、あれとかこれとか指さすだけなんだけど、そうすると親父が黙ってグラスに注いでくれるんだ。甘ったるいのやら、どろりとしたのやら、いままで呑んだこともないようなのを出してくれるのさ。
「素敵だなあ!」
__それにね、カウンターの横にね、じいさんがひとりいて、大きなザルを前にして立っているんだよね。カウンターをはさんで、店の側じゃなくて、客のいる側に、ね。店の奥の方なんだけど。そのじいさんのザルには、かなり大きなハマグリがいっぱい入っている。そこに呑みにきた客に、売っているんだね。どうも、経営は独立採算制のようで、そのじいさんが自分で浜からとってきて、そこで売らしてもらっているようなんだ。潮にやけた、いい肌の色をしているんだよ、そのじいさん。
「そのハマグリ、どうするの?」
__客がその場で食べるんだ、酒の肴として。じいさんに、5ペセタ渡すと、ハマグリの貝を小刀でこじあけ、中身を三つに切って、サッとレモンをかけて渡してくれる。
「生で食べるの」
__うん。
「日本の刺身みたいに?」
__そう。それだけなんだけど、おいしいんだ、新鮮で。じいさんは、その間、ひとこともしゃべらないんだけど、その手際のいいことと、レモンを絞る感じが、なんともいえず粋なんだ。ガキっとこじあけ、プツプツンと切り、シュッと絞って、スッと差し出す……。
「いいなあ!」
__いいんだよ、とても。
「行ってみたいなあ、そんなところに」
__行ってみたい?」
「とっても行ってみたいよ。行って、自分の眼で確かめてみたい」
__あなたの眼で確かめたい? 本当にそんなふうに思うの?
「思うよ、ほんとに。そんな旅行をしてみたかったんだ、あたしも。そんなふうにして生きて……でも、やろうと思えば、もうできるんだよね、あたしも。そうなんだ、できるんだ」
【解説】
沢木耕太郎さんは新しいこころみとして、いっさい「地」の文を加えずインタヴューだけで描き切るという方法をとることに決めました。
たとえば、冒頭の文章は、著書ではこのようになっています。
「呑み物は、どうします? 酒でいいですか?」
「うん」
「何にします?」
「ウォッカ、あるかな?」
「それはあるんじゃないかな。とりあえず、ここはホテルのバーなんですから」
「それなら、ウォッカトニックをもらおうかな、あたし」
「ウォッカ・トニックって、ウォッカにトニック・ウォーターを混ぜただけのもの?」
「そう、それにレモン」
でも、これって、読みづらいんです。
膨大な会話の途中で読み始めると、どれが誰の発言か分からなくなります。
なので、私の記事では、沢木耕太郎さんの発言のみ__(アンダーバー)を頭に付けて、区別するようにしました。
また、会話と会話の間に1行いれて、読みやすいようにしました。
__初めてじゃないんだな、藤圭子さんとお会いするのは。
沢木耕太郎さんは、今回が初めてではないことを話します。
以前、偶然にもフランスの空港で会っていたと。
「沢木さんは、どうしてそんなに長く、あっちこっち旅行してたの?」
__自分でも、よくわかっていない部分があってね」
「自分でわからないの?」
__そうだなあ……わかっていたのは、とにかく日本を起点として、少しずつ日本から離れていこう、ということだけだったな。ひとつひとつ国境を越えて行って……そうしたら、いつの間にか パリに着いてた。
この旅のことは、その後本に書いていますね。
沢木耕太郎『深夜特急 全6巻』。
長女に勧められて読みました。
面白かったです。
獅子風蓮