獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

正木伸城さんの本『宗教2世サバイバルガイド』その5

2024-01-23 01:57:47 | 正木伸城

というわけで、正木伸城『宗教2世サバイバルガイド』(ダイヤモンド社、2023.06)を読んでみました。

本書は、悩める「宗教2世」に対して書かれた本なので、私のようにすでに脱会した者には、必要ない部分が多いです。
そのような部分を省いて、正木伸城氏の内面に迫る部分を選んで、引用してみました。

(もくじ)
はじめに
1 教団の“ロイヤルファミリー”に生まれたぼくの人生遍歴
2 こんなときどうしたら?宗教2世サバイバル
3 自分の人生を歩めるようになるまで
4 それでも、ぼくが創価学会を退会しないわけ
5 対談 ジャーナリスト江川紹子さん 

2 こんなときどうしたら?宗教2世サバイバル


■親子関係編
□恋愛、友人関係編
□進学、就職、転職編
□信仰活動編
□信仰活動離脱後編


2 こんなときどうしたら?宗教2世サバイバル

親子関係編

Q:親に教えこまれてきた宗教儀式の習慣を大人になっても手放せません。

A:「信仰実践の入れ替え」で手放してみましょう。


幼いころから親に教えこまれてきた宗教儀式、ありますよね。
第1部では、「南無妙法蓮華経」のフレーズをくり返し唱える(唱題)という創価学会の宗教実践の話をしました。「唱題」とは、創価学会の修行の基本です。
もう一つの修行の基本に「勤行(ごんぎょう)」があります。これは、朝と晩、一日に2回、仏教経典である「法華経」の一部を読みあげる儀式で、この基本のうえにさまざまな活動が成り立っています。長年つづけてきたこともあってか、大人になっても、これらはぼくの習慣になっていました。
ですが、いま現在、ぼくは勤行も唱題もしていません。
それらを手放した当初は、勤行をしないだけで歯磨きを怠ったような気持ち悪さを感じていました。
悪いことが起こるんじゃないか。罰があたるんじゃないか。そうやってビクビクしていました。
でも、これは慣れの問題。ぼくには罰などあたりません。

子どものころに教えこまれた長年の習慣を手放そうとすると、人は不安になります。とくに勤行や唱題は、「よいこと」で「意義がある」とずっと教わってきたので、しないことが悪いことのように感じられる。
でも、考えてみてほしいのです。世のなかのほとんどの人は勤行をしていません。その人たちは悪い状態にあるのでしょうか?
ない、ですよね。勤行をしなくても、マイナスになることはないのです。
もちろん、勤行や唱題に、宗教的な意義はあるでしょう。信仰をしてきたぼくにも、その一分(いちぶ)はわかります。
でも、その一方で大事にしたい、つぎのような考えもあります。
「すぐれて価値あるもの」は、決して創価学会の“専有物”ではない、ということです。
世のなかには「勤行や唱題が最高に価値ある実践です!」という以外にも、ベつのものに最高の価値を信じる世界があるのです。

宗教よりもぼくがいま大切にしていること

いまのぼくのなかには、宗教ではありませんが、「聖なるもの」をもとめる気持ちがあります。
みなさんには経験があるでしょうか。
星空を見上げていて、ふと自分の存在の不思議さに気づく。寄せては返す波に手を浸したとき、まるで自分の体が地球に通じている気分になる。街に夕日が差しこんだ際に、家々が多彩に赤らんでいくのを見て、畏敬の念を抱く。
そういった宇宙や自然がはらんでいる崇高さに心を奪われたとき、ぼくは「聖なるもの」という言葉を思い浮かべ、手を合わせ、祈りをささげます。
このように人を畏怖・崇敬させるものを「聖なるもの」とよぶなら、ぼくはそれを大切にしています。
勤行や唱題から「『聖なるもの』にたいする祈り」へ、ぼくは宗教的な実践の内容を変更しました。これを「信仰実践の入れ替え」とよんでいます。

食べ物をいただくときの「いただきます」という言葉に、静かに丁寧に念をこめ、自身が生命の流転・連環の一部として「生かされている」と感じて祈るのも、そういった実践といえるかもしれません。
当然ですが、信仰そのものを手放すという選択肢もあり得ます。
やがてはそうなるかも。だけど、現状は「聖なるもの」を感じたときに手を合わせています。もしかしたら、いきなり信仰を手放すより、こうしてワンクッションを挟んだほうが、メンタル的にラクなのかもしれません。
ぼくは、「信仰実践の入れ替え」によって勤行と唱題を手放しました。


Q:宗教がらみの“親の躾”にたいする恨みがいつまでたっても消えません。

A:「復讐目的の再設定」で、親への恨みを手放しましょう。


これは、ぼくが生まれ育った地域の話ですが、たとえば、先にのべた勤行や唱題といった宗教儀式をさぼったり、創価学会の会合で悪ふざけなどをしたせいで、幼少期に厳しい躾を受けた創価学会の子どもが多くいました。
みんな、親に会合に連れていかれるけれど、子どもだからおとなしくしていることができずに騒いでしまう。すると、帰宅後に親から叱られるのです。
「真冬にベランダに2時間も放り出された」
「食事を抜きにされた」
「殴られた」
「定規でひっぱたかれた」
と証言する子もいました。
みんな、それを笑い合っていました。「ひでぇよな」って。ぼくも、母から受けた仕打ちを友だちに伝えて、笑いのネタにしました。

でも、こうした躾は、人によってはトラウマになります。それで、大人になってからも恨みから解放されず、苦しんでいる人もいる。
ぼくがうつ病になった原因の一つに、「創価学会をよくしようという強烈な責任感と、それが思うようにならない自責の念」があったのですが、そこに「躾の影響が見てとれる」と担当医はのべていました。ぼくは胸がうずきました。一部の親たちはおそらく、宗教活動で多忙で、気持ちに余裕がなくて、そうした行為に走ったのだと思います。ある意味、親も悲劇のなかにいる。
でも同情の余地があるからといって、手放しで親をゆるすわけにもいきません。ぼくは、過度な躾をした母と、そんな躾をせざるを得なくなるまで母を追いこんだ創価学会と、そこで幹部をしている父を恨みました。恨みまくりました。とくにうつ病の期間は何年も、何万回も、恨み節をくり返しました(だからこそ、学会をよく変えようと思いました。そこには恨みの感情とともに、愛着と愛情もあったのです)。
でも、恨んだところで、なにかが進むことはありません。
いまから考えれば、ぼくは気持ちの整理がうまくできなかったのだと思います。いまは、両親と仲良くしています。なぜそうなれたかといえば、時間がかかったとはいえ、やはり気持ちの整理ができたから。
この整理の仕方はおそらく、みなさんの役に立つでしょう。


親をゆるせるようになる気持ちの整理の方法

なにをしたかというと、「復讐目標の再設定」です。
精神科医のジュディス・ハーマンは、『心的外傷と回復』(みすず書房)のなかで、
心に傷を受けた人は、しばしば加害者に「復讐幻想」を抱くとのべています。「復讐幻想」とは、加害者に報復をすれば、自分の心の傷を厄介払いできると想像することです。ぼくの恨み節もそれに近いかもしれません。
そこでハーマンは、こう指摘しています。

「復讐幻想をいくらくり返しても、自身の苦悩は増すばかりで、しかも復讐は基本的に達成できないため、不満足感がきわめて強くなる。だから、復讐は負わされた傷のつぐないには決してならないし、傷を変えもしないのだ――。」

この言葉にふれて、ぼくは恨むことを手放しました。
長く、長く恨んできて、恨み疲れたということもあります。
くわえて、恨みが無意味だと悟ったのです。そして、つぎの考えに到達します。みなさんは「最高の復讐とは、幸せな人生を送ることである」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
仮に、あなたに加害してきた人がいるとします。その人は、あなたを傷つけたくて、そうした。そんな加害者がいちばん悔しがる復讐とは?
それは、あなたが幸せになることだ、という話です。
愛憎相半ばするとはいえ、創価学会・父・母という三者を恨んでいたぼくにも、おなじようなことがいえます。
もしぼくが三者を恨みつづけたとして、その恨みの果てになし得る最高の復讐とは? 「ぼくがめいっぱい幸せになること」でしょう。
こうして、ぼくは恨みを手放しました。


「幸せになる」という復讐で、恨みを手放す

すると、「幸せになる」という復讐がさらに価値を光らせます。
父も母も、そして創価学会も、ぼくに幸せになってほしいという点でおなじはずだからです(他人の不幸を願う信仰者なんていないですよね……)。
みんなが大賛成の結論、それが「ぼくがめいっぱい幸せになること」なのです。恨みから解放されたぼくは、それを素直に信じることができた。
これが、復讐目標の再設定になります。
もちろん、恨みを手放した時点で、ぼくは復讐も手放すことになるので、厳密にいえば「復讐目標」そのものがなくなったと考えるべきかもしれません。その意味でいえば、これは「復讐を捨て去って目標を再設定する」という表現にあらためてもよさそうです。

ただ、ぼくは、創価学会や両親ではなく、じつは「恨みにとらわれていた過去の自分」に復讐するというマインドを継続してもっています。
過去の自分がうらやむくらい幸せになって、過去の自分に復讐をしたい。この目標があるため、ぼくはあえて「復讐目標」という単語を使っています。
先に引用したハーマンは、復讐幻想から解放され、治癒が進んだ人は、自分を傷つけた相手をむしろ気の毒に思い、相手に同情するようになると語っています。
仮に加害者が創価学会であるなら、そもそも創価学会に関心をなくしていくといった状況にもなっていくかもしれない。ぼくはいま、創価学会から、また信仰活動から放たれ、まさにそんな気持ちでいます。
そして、無事に恨みを手放すことができました。
復讐目標の再設定は、おそらく宗教2世以外の、親子関係に悩む一般の人にも活きるメソッドだと思います。

(中略)

まとめ

宗教2世にかぎらず、親子関係に悩んでいる人はたくさんいます。
とくに被害を受けてきた宗教2世のなかには、「信仰をもつ親のもとに生まれてしまったがために人生を狂わされた」と感じている人もいます。その感情を解消することは、相当に困難です。
ぼくは長年、親や創価学会に愛情や憎しみ、復讐心を抱きつづけました。でも、いくら恨んでも過去は戻りません。恨み節にも疲れて、気がつけば「自分が幸せになることが最高の復讐だ」と思うようになり、気もちがラクになりました。理想をいえば、親と対話して、わかり合いたい。ですが、それが難しいことも多々あります。正直、絶縁したほうがいい場合だってある。
決して無理はせず、あなたには「教団や親がしめす人生」ではなく、「あなたの人生」を生きてほしいと願っています。


解説
正木伸城さんは、自身の体験を踏まえつつ、悩める「宗教2世」のために、実践的なアドバイスをしています。

私は、「宗教2世」が、宗教組織から離れたとしても、信仰そのものを捨てる必要はないのではないかという立場です。(カルトの場合は別です。さっさとやめましょう)

立場の違いこそありますが、正木伸城さんの体験と悩める「宗教2世」への優しさには共感を覚えます。


獅子風蓮