前回に引き続き「近況報告」のスレッドについたコメントです。
●signifie(2012年2月4日 12:05)
ゆうべは涼風さんが意義深い提案をされているなかで、私も「祈り」についてあれこれ考えていたのですが、そこにまたも「荒らし」がやってきて暴れてしまいましたので、その対応に気持ちを削がれてしまいました。それで思ったことは、荒らしは徹底的に相手にしないのがいちばんだなと思いました。ちょっとでも相手にすると面白がるか、または逆上するかで手に負えない醜態をさらします。学会員のふりをして面白がって荒らしているのか、ほんとうに学会員がこのブログをやめさせようとしての荒らしなのかはわかりません。もしほんとうに学会員だとしたら、学会の異常さを一般にアピールすることにしかならないのですから、ふつうなら考えられないのですが、教学のことも話をしていましたので、頭のおかしな学会員なのかもしれません。それで私はみなさんにこういう輩には一言たりとも相手にしないでくださいと呼びかけました。真夜中ということもあり、みなさん見事に無視してくださいました(笑)。荒らしの書き込みはすべて削除しました。今後もこのようなことがあったときには、同様に徹底的に無視してください。私も見つけ次第削除します。よろしくお願いします。
それから市さんという方に関して、私は長々と質問をしています。もちろん市さんのコメントを荒らしだとは思っていません。ただこのブログで対話を望むような態度ではないと思いましたので、そのあたりのことを書かせていただきました。荒らしに頭に来ている最中だったので(笑)、ちょっと遠慮なく書いた部分もありますが、上から5行だけでも、これだけ長い文になってしまいました。全部で16行のコメントですが、すべてについて書いていると1冊の本ができるくらいです(笑)。「信仰とはギブアンドテイク」この1行だけでも頭がクラクラするくらい長い文章を書いて説明しなければ対話につながっていきそうにありません。ですからそれ以前に最初のあたりでジャブ的に(笑)市さんがどこまで自分の言葉に責任を持って書かれているのか確認をしたかったのです。もし市さんが本気でここで対話をしたいと考えられているのであれば、私の質問に答えてくれるだろうし、そこまで考えられていないのであれば、もう書き込みはしてこないでしょう。ここまではっきり言われた上で市さんがどこまで言ってくるのかわかりませんが、私としては少しでも対話につながる可能性があるのであれば、きちんと対応していきたいと考えています。私は真剣にここにコメントをしてくださる多くの方たちのためにも、管理者として快適な場所を提供していきたいと思っています。
涼風さん、おはようございます。祈りについてですが、まず創価学会とは切り離して考えた方が良さそうに思います。これは信仰全般についても言える事だと思いますが、宗教に限らず、人間の精神活動を考えるなかで、創価学会のことを同じレベルで比較するとわけがわからなくなります。祈りとはとりわけ人間の崇高な精神作用だと思いますし、とても大きなテーマだと思います。祈りとは宗教がこの世に生まれる前から存在していました。親が我が子の健康を思うのも祈りですし、作物の豊穣を願うのも祈りです。震災で大変な思いをされている方に、どうか元気を出してくださいと願うのも祈りです。一方、創価学会は何を祈っているのか。「新聞啓蒙ができますように」とか「Fがたくさんとれますように」とか「宗門は地獄に堕ちますように」とか「財務が百倍になって帰ってきますように」という創価学会員の祈りは呪いと呼んだ方がしっくりきます(笑)。これは冗談のようで冗談ではないですから恐ろしい。祈りという尊いことばひとつとっても創価学会の世界ではとんでもないことに変換されてしまいます。ですからまったく別の世界のものとして考えなければならないと思っています。
私ももう少し自分の考えをまとめてからお話しさせていただこうと思っています。
●ほとけ(2012年2月4日 14:35)
はじめまして、ほとけといいます。
シニフィエさんのMCがとけた直接の原因とは何でしょうか。
何がきっかけだったかぜひ教えてください。
●北斗七星(2012年2月4日 15:24)
シニフィエさんこんにちは。太平洋側では少し寒が緩んでいます。寒い朝は出勤がつらいですね。
WARDPRESにトップ表示されたとのことおめでとうございます。
さて、信仰とMCについて私の現在の考え方をコメントしたいと思います。私の活動歴は35年くらいでしょうか。長い割にはそれほど良いこともなく月日をいたずらに過ごしたようです。逆に悪いことの思い出の方が脳裏から離れず今でも、悔恨の情に苛むことがあります。
そして近年あることがきっかで活動を停止、あるいは廃止しました。脱会しても構わないのですが、親戚等の対応がおっくうで現在、籍を置いてる状態ですかね。
私が、学会に大きな不審を抱いたのは、日顕法主の芸者写真捏造裁判を知ったときです。あれほど日顕法主をいたぶっておきながら、その根拠が捏造された芸者写真だったのですね。あいた口が塞がらないとはこのことです。
当然、裁判は学会側の敗訴になりました。当時、このことを学会員の誰も知りませんでした。
まず言っておきたいのは、そのような不法行為を公然とやっていながら、学会を辞めると罰が出るのでしょうか。たった今人を殺しておいて、その血の付いたナイフを懐に仕舞って大勢の人に慈悲を説いているのと同じ本質があると思いませんか?
たった一つ例を挙げても、その行為の狡猾さと、非人間性がはっきりと見えてきます。再度言います。そのような学会を辞めてどのような罰があるのでしょうか。
もう一つ、信仰についてですね。私は、活動を止めても題目は上げ続けています。女房も一緒です。おかげでこの数年様々な難関を乗り越えた確信があります。
はっきり言いたいことは、学会と御本尊とは全く別物であると言うことですね。これが私の見解です。
700年来日蓮正宗のご本尊が変わったことはありません。変わったのはそれを受け保つ側の学会が変わったのです。だからこそ、現在人が離れているのではないでしょうか。
ただ私は、ご本尊が正しいとか、他の人に無理強いしようなどと思いません。人は自分に合うものを受け入れていけば良いのではないでしょうか。
私は、日蓮仏法は未完成ではないかと思うことがあります。法の流布のあり方と人間組織のあり方がいまいち曖昧で大雑把な印象を受けます。だから、昭和、平成の時代に利用されたのではないか。また、昭和初期の2.26事件も大半の青年将校が日蓮宗であったと言うことも無視できません。
長々とコメントしましたが要は学会を止めても罰など出ませんと言うことです。と私は思います。
●希望(2012年2月4日 16:15)
「創価学会のような詐欺団体」という表記は、名誉毀損にはならないと思います。著作権侵害とは、全く
別の問題です。
万が一にでも、創価学会本部が「名誉毀損」で提訴したら、堂々と受けて立てば良いのです。それだけ
のことです。
その時には、創価学会本部の脅迫に屈しない優秀な弁護士の方々をご紹介します。
●SJ(2012年2月4日 16:59)
民事で言う名誉毀損にはあたらないのかなと、私も思います。
損害賠償を求める場合、その発言行動によって明らかな損害をこうむったことを証明する必要があります。
周知の事実・イメージであれば、今さら損害など出ませんからね。
刑事罰の場合は、事実であれば免責されるという原則があったと記憶しています。
日本での著作権は創作時に自動的に発生する物ですので、わかりやすく訴えやすいというのがあります。
肖像権の侵害もそうですね。
失礼しました。趣味程度の勉強での、うろ覚えです。合ってるかどうかはお調べくださいね。
ただ、好戦的と取られかねない言い方ではあるかなと思います。
慎重にいきましょう。
●アレックス(2012年2月4日 20:42)
北斗七星さん、今晩わ
はじめまして
時の日達上人様が創価学会を破門された時点で、創価学会は日蓮正宗に認められない団体になったのだと思いました。
この時点で私は少しずつ学会から離れていったと思います。
と言うのも、学会に入会した目的は仏教について色々と知りたいと言う事でした。
ですから、破門されると言うのはそれなりの意味をもつものでした。
>私が、学会に大きな不審を抱いたのは、日顕法主の芸者写真捏造裁判を知ったときです。あれほど日顕法主をいたぶっておきながら、その根拠が捏造された芸者写真だったのですね。あいた口が塞がらないとはこのことです。
はい、私もそれも学会との決別に至った理由の一つでした。
>はっきり言いたいことは、学会と御本尊とは全く別物であると言うことですね。これが私の見解です。
700年来日蓮正宗のご本尊が変わったことはありません。変わったのはそれを受け保つ側の学会が変わったのです。だからこそ、現在人が離れているのではないでしょうか。
はい、私もそう思いますし、その通りです。
>ただ私は、ご本尊が正しいとか、他の人に無理強いしようなどと思いません。人は自分に合うものを受け入れていけば良いのではないでしょうか。
私も同じ考えです。
>私は、日蓮仏法は未完成ではないかと思うことがあります。法の流布のあり方と人間組織のあり方がいまいち曖昧で大雑把な印象を受けます。
はい、その通りです。
日蓮さんについて、人間ではない存在にコンタクトし質問した事があります。
当時は、科学が発達していない鎌倉時代ですからそう言った背景があり、当時の人々に合わせる必要があった為、結構方便を多用された様です。
方便として強い口調での脅かしもあった様です。
例えば、「悪いことしたら地獄に落ちるぞ」みたいなものです。
当時は効果があったのでしょうが、現在ではネガティブに作用する場合もあります。
それに似た様な事が学会にも散見されると言う事でしょうか?
対象についてもしかりです。
科学的見地から言えば本尊は必要ないのですが、当時は色々な仏教の宗派が乱立しました。
当時の大衆は、素人から見ればどれが正しいのかも?も分からない。まして、知識もありやしません。
日蓮さんの偉大なところは、言葉のジャングルであった仏教に7文字の南無妙法蓮華経を打ちたてシンプルにした事でした。
これを心穏やかに唱えるだけでも気持ちが良いものです。
しかし、これだけでは大衆は目に見える形がないのも等しく、目に見える形での本尊が必要でした。
そこで、曼荼羅の真ん中に「南無妙法蓮華経」を位置づけました。
これによって、素人には必要な?目に見える形のものが出来上がりましたが、それも方便です。
ですから本来宗教は必要ないのですが、宗教としての位置づけがある限り未完成だと思います。
完成すれば、それは色々な事が統合されると言う事を意味しますので宗教ではなくなるからなのです。
(後略)
●ほとけ(2012年2月4日 21:30)
北斗七星さん、アレクスさん。
破門された創価学会が駄目になったのであれば
現存する日蓮正宗は正しいのでしょうか。
もし創価学会が日蓮正宗創価学会のままであれば
お二人は活動を続けていたでしょうか。
●アレックス(2012年2月4日 22:06)
ほとけさん、今晩わ
質問されましたのでお答えさせて頂きます。
>破門された創価学会が駄目になったのであれば現存する日蓮正宗は正しいのでしょうか。
はい、正しいと思います。
ただし、相対的な意味にです。
>もし創価学会が日蓮正宗創価学会のままであればお二人は活動を続けていたでしょうか。
そうですねえ。
人には、気持ちと言うものがありますので微妙ですねえ。
今の私であれば、活動を続けていたかどうか?は自信がありません。
と言うのも、学会とは別に精神世界の探求をしていましたので、学会とは関係なく心穏やかに題目をあげている時はすがすがしいものです。
その時のエネルギー状態と言うのは、題目を上げている時だけしか維持出来ません。
ですが、それ以外の方法で先ほどのエネルギー状態を年中無休で維持出来る方法が見つかったのです。
起きていても寝ていても同じエネルギーですから、自覚がありません。
ですから、日蓮正宗の題目によらなくても良い訳ですから、残るのは日蓮正宗の教義のみになります。
その教義は、結構役に立つ部分も多いので参考程度に引用するのではないでしょうか?
あくまでも、私個人の場合は?と言う事での前提です。^^
●北斗七星(2012年2月4日 23:15)
ほとけさん、今晩は。ご質問に私なりの考えを述べさせていただきます。
本山の宗務も人間の組織ですから様々な矛盾もあるでしょう。その責務は大ご本尊と教義を守ることです。少なくとも、本山としては最低限の責務は果たしてきたと言えるのではないでしょうか。
もう一方の創価学会は、仏法を広宣流布して人類の救済を目的とする平和運動が主体の組織であったはずですよね。
ところが、時代とともにその実態が大きく変貌してきたことは周知のことと思います。私は、自分の思いと相容れないことはその時点で止めるのが正常な人間の道と思います。
話が少し論点から外れそうですので戻しますと、私が言った「創価学会とご本尊は別物」とは、
ご本尊は悩む民衆に授けられたのであり、それは組織が云々することはできないのです。言ってしまえば、ご本尊はそれを信じる一個の人間の問題であると思うのです。
続きはまた明日述べます。ちょっと遅くなりましたので。
●signifie(2012年2月5日 00:00)
ほとけさん、はじめまして。そのHNどうにかなりませんか(笑)
ま、いいですけど。
私のMCが解けた直接の原因についてですね。
じつは私にもよくわかりません。すみません。「これっ!」って言う決定的な出来事があれば分かりやすかったのですが、今思い出してみても、はっきりと指し示せるような出来事がないんです。ただ前にも何度か書きましたが、学会のおかしさを確認する意味で、活動家のブログにコメントをした結果、でたらめな反応しか返ってこなかった事が、大きく私の気持ちを決定づけたのは確かです。おそらくそれはMCが解けたのではなく、学会のおかしさについての確信が持てたといったほうが近いと思います。MCが解けはじめたと感じたのは、それからもう少し時間が経って、このブログを立ち上げた当初であったような気がします。
もちろん学会がおかしいと思い始めたのは、もっともっと前のことです。う?ん、いま過去のことを思い返してみて頭に浮かぶのは、中等部のときです。そうですね、すでに中学生のときから違和感を感じていたようです。それは今から約40年前の富士大石寺。正本堂ができたばかりで、当時建物は完成していましたが周辺の植栽は全く整備されていませんでした。そこで全国中等部夏期講習会なるものに参加をしました。行き帰りの交通手段の中ではずっと学会歌を歌い続け、交代で指揮をとりあい、すでにそこからトランス状態が始まっていたようにも思います。新世紀の歌、東洋広布の歌、威風堂々の歌(別名:濁悪の歌)などなど、どう考えても軍歌にしか聞こえないトランスミュージックです。その夏期講習会のメインイベントが屋外で行われる予定の全国中等部総会。しかし台風接近とあって天候が危ぶまれていました。案の定「我々のお題目の力で中等部総会を大成功させよう!」と、総本山に到着するなり晴天祈願の大唱題会。上げましたよ(笑)。何時間上げたかわからないくらい、渾身の力をこめて上げました。今思えば当時いっしょに参加したメンバーが、のちの副会長、総県長、青年部長をはじめうちの地元の最高幹部になっています。そう言う意味では私はおちこぼれですね(笑)。当時は総房に宿泊し、正本堂に参拝、その後、体験発表、交流会、御書学習会(講師は当時の全国男子部長だった太田昭宏氏)などいろんな行事をこなし、晴れこそしなかったですがそこそこの曇り空の下、夕暮れの塔の原グラウンドに全国から集まった数千人か数万人かは知りませんが、全国中等部総会が行われました。そこに現れましたイケダセンセイ。それだけでものすごい熱狂でした。みんな「センセイ~センセイ~!」と泣き叫んでいました。私の2・3メートル先にそのイケダセンセイが近づいてきました。そう、まわりはイケダコールなどと生易しいものではなく、絶叫と感涙の嵐です。私の横にいた地元部員を見ると、やはり涙をぼろぼろ流しながら、声が枯れるのもかまわず「センセイ~!」の絶叫を繰り返してました。私はというと、完全に冷めていました(笑)。「なんで会った事もない大人にこれだけ陶酔できるんだ」と、そうとうな違和感をおぼえたのを今でもはっきり記憶しています。ここまで冷めていても、その後何十年もMCが解けなかったのですから、ある意味私はそうとうなおバカさんだったんですね。あのときMCが解けていれば、私の人生も…
次に私が創価学会に違和感を感じたのは、その総会から7年ほど経った学生部の頃だったと思います。その当時、毎晩学生部の先輩のアパートに集まっては離散し、新入生の下宿を片っ端からアポなし訪問しての仏法対話と折伏の連続。仏法対話といえば聞こえはいいけど、地方からでてきたばかりの孤独で不安な新入生に対して、どかどかと勝手に部屋に上がり込んで「仏法とは…信仰とは…」とわけのわからないことをまくしたてて、そのままご本尊送りをする。いわば相手の弱みに付け込んだ押し込み強盗のよなことを毎晩繰り返していました。これって当時の極左といわれた学生運動家よりも過激なことをやっていたような気がします。たち悪すぎです。そしてまた集まっては唱題と人間革命の歌の大合唱。私は何が嫌かって、この人間革命の歌を狭いアパートの一室に集まって、みんなで正座して歌うのが死ぬほどいやだった(笑)。ふつうの神経ならいやですよね。こと学会の音楽センスに関しては心底最低最悪だと思っていました。ついでに創価班や牙城会のブレザー(吉本漫才かって間違えそう)も最悪ですが、今もかわらないですよね。だったらあれに金色のでっかい蝶ネクタイをしてほしい(笑)。話がそれましたね。こんな学生の集まり、気味悪くて当然です。学生運動でヘルメットとハンドマイク持って叫んでいた連中の方がまだまだずっと健全だと思います。そうそう、学生部時代は活動はしていましたが、この歌だけは勘弁してほしいというか、そうとうな違和感を感じていたことを思い出しました。
その後私は就職し、男子部員として活動するようになりました。そのとき感じた違和感は財務です。高校卒業したばかりのとてもおとなしい新男子部員に、有り金全部を財務にさせた当時の地区の男子部長。そしてそれを拍手でたたえたメンバー。私一人がなっとくいきませんでしたが、有りはたいた本人の意思であるならしかたがないと自分に言い聞かせていましたが、それは今でもずっと心に残っています。
あとは、選挙かな。選挙について話をすると私の素性がばれてしまいますのでやめときます。でも政治関係はとくに納得いかないことのオンパレードでした。今もそうです。
それから結婚するときでした。相手はまったく学会をしらない家庭でしたが、私が結婚すると言ったとたん、幹部が相手の実家まで押しかけて信心の話をするんです。挙げ句の果ては結納までついてきて、あれやこれやとおせっかい。今思えば彼らは本流(外部の方は知らないと思うので言いますが、本流(ほんる)とは御本尊流布の略で、つまり学会員の数を増やすってことです)の数が欲しかっただけなんですね。彼らは妻がご本尊送りをしたあとは知らん顔でした。
その後は、もういくらでもあります。地元の婦人部長の横柄で日和見でご都合主義といったら怪物です(笑)。壮年部もほとんど人格破綻者です。ですから彼らの言動によって学会に対する疑問は膨らむだけ膨らんでいきましたが、ご本尊に対する信仰という意味では、ほとんど揺らぐ事はありませんでした。今考えればということでしかありませんが、おそらくこのご本尊への信仰の確信が揺らがなかったせいで、ここまでMCが解けなかったんだろうと思われます。とにかく昔から組織の人間に対しては常に強烈な違和感があったし、反発こそしませんでしたが、軽蔑していました。あとはチベット問題や、公明党の問題や、世間一般に言われている創価学会の問題も、ことごとく「あ、やっぱりな」と言った感じでしたが、しかし勤行・唱題はびっくりするほど真面目にしていたし、教学も積極的に学んでしました。悩みが出てきたら即唱題。誰に言われなくともお題目で乗り切ることができる自分を信じていました。でもそれさえ間違っていたことに気づくのが、残念ながら本当に遅すぎたと思います。
そうですね、ここまで書いてきてはじめて気づきました。私はとうの昔に学会を見放していたんだと。ただ信仰に関して疑わなかった。だからこの信仰にも疑問を持ち始めたつい2ヶ月ほど前、つまり勤行・唱題をぱったりとしなくなった瞬間が、私がMCから解き放たれた瞬間だったのかもしれません。しかしそれは自分のMCを自覚する始まりでしかなかったということです。
ほとけさま(笑)、私に貴重なご質問をいただきありがとうございます。こうして自分で書きながら、なるほどこうだったんだということがわかりました。これからの私に必要なものは、確信の持てる信仰に出会うことだと思います。いやあ、かみさまほとけさまです(笑)。今後ともよろしくお願いします。
●北斗七星(2012年2月5日 09:59)
ほとけさん、お早うございます。昨夜の続きです。
私は、ご本尊は信じて題目を唱えれば、生命力が持続できるということを、この35年間で確信できたのです。また、それ以外に得たものはあまり記憶にありません。記憶と言うより生命に深く残ったものはありません。
しかしそのことと日蓮正宗総体が正しいこととは違うと思っています。法主は三大秘法のご本尊をお守りすることが最大責務であり、またそのようにしてきたのではないでしょうか。ですから私はお寺に付いて活動をすることはありません。
御金言に「日蓮を用いるとも悪しく敬わば国滅ぶべし」とあります。このご本尊はあくまでも苦しむ凡夫一人一人に個別に授けられるものであり、誰にも侵すことはできないと考えます。但し悪用する人には唯一干渉できるものではないでしょうか。
その結果、創価学会は破門されたと思います。詳しくは他のネットでお調べ下さい。そう考えると創価学会と日蓮正宗が今でも僧俗一体と言う仮定は成立しません。
最後に、創価学会が余程の内部改革をしない限り、私は永遠に拒否することになると言うことを断言いたします。
ほとけさんこれで良いでしょうか。以上です。
※signifie さんも仰っているようにHNは変えたほうがよろしいのでは・・・。
●アレックス(2012年2月5日 10:24)
ほとけさん、おはようございます。
ご質問の「エネルギーを年中無休で維持できる方法とはどういう方法なのでしょうか」と言う件ですが、ご自身で探した方が良いと思います。
「求めよ!されば与えられん」です。
求める想いが強ければ磁石の様に引き寄せて来ます。
見つかるまでのプロセスもほとけさんにとってプラスになるはずです。
そうした旅もよろしいのではないでしょうか?
ご健闘をお祈り致します。
●北斗七星(2012年2月5日 10:53)
アレックスさんおはようございます。コメントありがとうございます。
朝起きて、ほとけさんに続きのコメントをするため気が付きませんでした。
ちなみに私はご本尊の前では時間を取って題目は上げません。通勤時間が長いのでいわゆる読誦の題目です。それでもすごい力があります。
また、勤務中でも工場内を歩くときには心の中で題目を唱えます。行住坐臥、お題目です。
これからもよろしくお願い致します。
【解説】
シニフィエさんが涼風さんの質問に答えて、
「祈りについてですが、まず創価学会とは切り離して考えた方が良さそうに思います。」
と言っています。
無神論者のシニフィエさんにとって、「祈り」の質問は不得手なのではないでしょうか。
即答をさけ、
「私ももう少し自分の考えをまとめてからお話しさせていただこうと思っています。」
というにとどめています。
次に、ほとけさんの質問に答えて、シニフィエさんがMCが解けた直接の原因について書いています。
興味深い、シニフィエさんの歴史です。
アレックスさんも北斗七星さんも、日蓮正宗と本尊に対する信仰心は保った上で、コメントしていますね。
シニフィエさんも、そのことを容認して対応している。
このころなら、私もシニフィエさんに受け入れられたのかな、なんて思ったりします。
獅子風蓮