獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

対話ブログ・ステージⅠ:涼風さん登場 (6)

2021-10-15 01:05:44 | 対話ブログ

前回に引き続き「近況報告」のスレッドについたコメントです。


●涼風(2012年2月3日 17:52)
このblogで語られる皆様へ

お忙しいところ、申し訳ございません。

一つ、是非ともお伺いしてみたいことがあり、コメントを書かせていただきます。

皆さまにとって、「祈る」という行為は、どういう意味だと思われますか?

創価学会のような団体の祈りが間違っているのでしょうか。

宗教団体とは切り離して、祈る行為自体は、別に悪いことではないと思うのですが…。

●今田利次郎(2012年2月3日 18:24)
涼風さん、こんばんは。
祈るということは生命の対話だと思います。
生命の対話とは何をおいても信じるという事でしょう。
市さんが書かれていたように、疑いをおこしてしまったら祈りは成立しないと思います。
50年100年心から祈り続けても、一瞬の疑いで全て崩壊すると思います。

●signifie(2012年2月4日 02:15)
市さん、はじめまして。コメントありがとうございます。
私はこのブログの管理人のシニフィエと申します。53歳になる学会二世です。思うところあって今は学会活動をしていません。学会二世というのは、生まれる前から親が創価学会に入会していて、生まれてすぐに自分の意志とは関係なく親の独断で創価学会員として育てられた人間のことを指します。ですから自分の意志で自分の信仰を選択する余地がないまま大人になった人間です。生まれてからずっと「創価学会の信仰だけが正しい。あとはすべて間違った信仰であって、創価学会以外の信仰をすると不幸になって地獄の苦しみを味わうのだから、創価学会員の子供として生まれてきたお前は誰よりも幸せな人間だ」と教え続けられてきた人間です。こういう子供を創価学会では福子(ふくし)と呼びます。最初はこのことが一般的な信仰の概念とは大きく違っている事にまったく気がつきませんでした。なにしろ創価学会以外の宗教はすべて間違いであり、創価学会に対する批判はすべてウソだとずっと教え込まれてきたのですから疑いようがありません。ですから少年部、中等部、高等部、学生部、男子部とそれはそれは真面目に活動していました。ただ年を経るにつれ、さすがに創価学会と社会とのモラルの違いがあからさまに見えるようになり、壮年部になるころには次第に活動から遠のいていきました。しかしそれでも学会は正しいと無理矢理考えるようにしていましたが、ついに53年目にしてやっとのことで創価学会は普通の宗教団体ではないとはっきりと気づいたのです。少なくとも創価学会のやっていることは宗教のそれではないと今から2ヶ月前に気づいたのです。気づいたときはもうたいへんな価値変換を突きつけられ、これまでの53年間の自分の人生は何だったんだと落ち込みました。それからほどなくしてこの創価学会の実態を多くの皆さんに知っていただくことをめざしてこのブログを立ち上げました。このブログでは創価学会が宗教団体を装った利権集団であるかもしれないということを、さまざまな方の実体験を通してあきらかにしようと考えています。ですから「創価学会の宗教的側面は手段であって、本来の宗教団体の信仰とは違うものである」と感じるに至った私のこれまでの実体験を前提に話をしています。また同じように実体験をされた方が、私の体験や考えの変遷に共感されて、多数コメントをいただくようになりました。以上がこのブログの管理人である私の自己紹介とお考えください。わけあって実名や住所を明かせませんが、自称800万世帯(笑)とも言われる日本の創価学会員の中のどこにでもいる現役学会員の一人です。よろしくお願いします。
 
市さん、あなたのコメントに対してほとんどの方が無反応なわけがおわかりでしょうか?それはですね、はっきり言って話にならないからです。こんな人とは話しても無駄だなと思われているからです。おわかりですか?もちろん皆さんがそんなふうに思っているわけですから、市さんの話の内容がここを訪れる方に理解されるわけがありませんし、実際理解しがたい内容です。
でも管理人の責任として、少しだけかいつまんでご説明しましょう。そしてこれから説明の中で、いくつか質問をさしあげます。よろしかったらお答えいただけませんか。もしかしたら、その質問と回答のやり取りの中で、あなたと対話ができるかもしれません。私はそのわずかな可能性に賭けてみます。できるだけお互いに誤解のないような言葉を使おうと思いますので、多少まどろっこしい言い回しになりますがお許しください。

まず市さんのコメントの4行目と5行目です。

>創価学会の信仰の事はよくしりませんが、
>全ての信仰に関して言えることは、祈る側だけの勝手になならないという事です。

この2行の言葉がよく理解できませんでした。日本語としては間違っていないと思うのですが、意味がまるでわからないのです。いったいこの文章がどうしてわからないのだろうと自分なりに考えてみました。
私なりに理解したのは、伝統的な解釈でのいわゆる「信仰」といわれるものに関しては、一貫してすべてに共通して言えることがあって、それが「祈る側だけの勝手にならない事」であるということのようにうけとりましたが間違いないでしょうか。そしてこのことは何か一般論としてあるのでしょうか。それとも市さんの個人的な見解でしょうか。ここは大切なところですからはっきりお答えいただきたいです。

市さんのこの言葉からは、信仰というものは教義や宗派の違いはあっても基本的に同じであるという前提で言っているように聞こえるのですが、そう受け止めて間違いありませんか。それはそれで市さんのお考えであれば誰も否定はしません。ちなみに私は肯定できないといいますか、そんなこと誰がわかるんだろうと思うわけですが、ここではそれは問題にしていません。
まず、私やここにコメントをいただいている創価学会員やかつて学会員だった方(以後ここでは「私たち」と省略させていただきます。)にとっては、他の宗教や宗教全般のことを話題にしているわけではなくて、こと創価学会の信仰は本来の伝統的な解釈としての信仰ではないとの実体験に基づいて発言していますので、市さんと考えが異なるのも当然だと思います。つまり市さんは創価学会の信仰も含めたあらゆる信仰と呼ばれるもの全体をひとつのものであるという前提で話をされている。ところが私たちが問題にしているのは、そうした一般的な信仰と呼ばれるものの枠から大きく逸脱していると感じる創価学会の「信仰」なるものに関して論じているわけです。論じる対象や前提が最初から違っているんです。
にもかかわらず、市さんのコメントは最初の「こんにちは」のすぐあとで「みなさまは勘違いしていらっしゃる」と私たちを全否定することからはじまりました。つまり市さんは私たちとの論点がくい違っている事を無視した上で、私たちを「勘違い」と断じていらっしゃいます。すでにこの時点で対話拒否されていますので、誰も口をはさもうとしないわけです。市さんのようにまずはじめに私たちを否定するところから話を始める態度は、およそ対話とは言えないのではないでしょうか。いいですか、市さんはまず最初に自分の考えが正しくて、私たちは間違っていると断定された上で、話をされています。これは創価学会の考え方とほぼ同じように思えますが、市さんは創価学会ではないのですね。さらに次の行では私たちに対して「ご自分を基準に物事を解釈されておられますね。」とおっしゃいました。どうでしょう、この市さんの一方的な否定の仕方こそが、ご自分を基準に物事を解釈されているように私には思えるのですがいかがでしょうか。 
私は市さんの考えを否定はしません。まだ市さんの考えがよくわからないので肯定もできません。たとえば市さんが「私はこう考える」と言われれば、私は「そうですか、そう考えられるのですね。私はその点に関してはこのように考えますので、残念ながら同意はできません。でもお互いの考えですから、本来すべての考えを一致させることのほうが不自然ですよね」などと、不一致の一致といいますか、意見が違うにしても互いに認め合うところではじめてコミュニケーションが成立すると考えています。それが対話というものであり、生産的なコミュニケーションの方法ではないでしょうか。もし私が市さんのように、あなたに対して「あなたは間違っています。話にも何もなりません」と否定したら、あなたはどう思いますか?市さんは私たちの対話の場にやってきて、まさにそうした発言をしたのです。つまり最初から「あんたたちと話す気なんてない」と言いにきたようなものです。このことに関してどう思われますか?
さらに市さんは「創価学会の信仰の事はよくしりませんが、」と前置きをしておられます。少なくともこのブログで創価学会について発言されている方は何十年と創価学会の活動を実践されてきた方ばかりです。何十年という実体験が裏付けとしてあっての発言に対して、「よく知りませんが」という前置きをしながら「みなさまは勘違いしていらっしゃる」と言われるのは、私たちの実体験を覆すことができるだけの根拠があってのことなのだろうと思いますので、その根拠をお話ししていただければありがたいです。
市さん、あなたは何のためにここにコメントを書いたのでしょうか?私たちを否定して優越感を持ちたいからですか?単に暇つぶしで一方的に言い放ちに来たのでしょうか?私たちはそんな暇ではないのです。生まれたときから創価学会員であったことによって自分の人生を失ったことの気持ちの整理をしながら、これ以上私たちのように苦しむ人を増やしたくないという思いで必死で対話を重ねています。ですから、真剣に人生を考えている方が集まる場所に、理論にもなにもなっていない無益な書き込みをするのは今後やめていただきたいのです。私たちがあなたに何か嫌がらせでもしたでしょうか?どうか私たちの自分自身の人生を取り戻す邪魔をしないでください。よろしくお願いします。

1行目の「こんにちは」はさておき、2行目から5行目までのたった4行の市さんのコメントに、すでにこれだけの疑問が出てきました。私としては6行目からも同じようにわからないことばかりで、質問を最後の行までしていくと何日かかるかわかりませんので、とりあえずここでやめておきます。

できましたら一般の方が理解できるような言葉で回答いただけませんでしょうか。よろしくお願いします。回答する気がなければ、「ない」とだけでも返事をください。でなければ私はいつまでも待っておかなければなりません。

 


解説

涼風さんから、

皆さまにとって、「祈る」という行為は、どういう意味だと思われますか?

という正面からの質問がありました。


それにしても、シニフィエさんの市さんへの攻撃、凄いですね。
これでは市さんも怖くて反論できないですよね。
市さん、なかなかいいことを言っている雰囲気があったのに、残念です。

なお、ここに引用はしていませんが、今田利次郎という人が、シニフィエさんや参加者が「創価学会のような詐欺団体」と言うのは、名誉毀損に当たるのではと、忠告しています。
それについて、シニフィエさんは、次のように答えています。

アドバイスありがとうございます。そうですね、このブログがかなりのアクセス数になっていくであろうことを考えれば、公的な言葉の表現として気を使わなくては、思わぬところで閉鎖へ追い込まれてしまうかもしれません。私自身も詐欺集団という言葉を使っていました。名誉毀損か表現の自由か、いろいろと難しいことも関わってくると思いますが、つまらないことで争いになるぐらいなら避けた方が賢明かとも思います。伝える内容は同じでも、言葉尻を捕まえて攻撃されては元も子もないですからね。詐欺集団はやめましょう。

でも、他の参加者からは、名誉毀損に当たらないのではないかという意見が出され、結論はでなかったようです。

獅子風蓮