★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

廻心の時間

2022-08-16 23:28:43 | 思想


信心の行者、自然に腹をも立て、悪し様なる事をもおかし、同朋同侶にもあいて口論をもしては、必ず廻心すべしということ。 この条、断悪修善のここちか。一向専修の人においては、廻心ということただ一度あるべし。

廻心が一度しかないというのは確かにそうである。我々はたいがい数限りなく回心を繰り返しているので、それに何の価値のないことを言っているのである。といすると、たぶん一度もないというのが現実的な判断だ。

我々の日常というのは、絶え間のない情報の摂取によって、そのつど回心を起こしているといってよいので、この反復動物的な状況を覆すためには日常の時間の流れ自体を覆す必要がある。定期的に、論文ではなく、研究書を一冊精読するようなことをした方が良いのは、長篇小説を最後まで読んだ方がいいのと同じで、こちらの世界観を変えるためにはそうしなきゃ無理だし、最後まで読まないと筆者が何をしたかったのかはわからない。研究者にかぎらず、つまみ食いの癖は読書をし続けるにはいいことである側面があるが、読者が自分の認識に閉じこもる癖とも繋がっている。当然、ネットの言説はつまみ食い的に読まれるので、ネットを閲覧する人たちはそうなりがちなのである。ネット空間が、空間である限り、我々の日常と違いはない。

松岡正剛氏が、「三教指帰」から編集のありかたを摑んだと言っていた。これはすごく高踏的な感覚で、その感覚自体編集的な精神の働きである。わたしなんかは、どちらかというと、圧縮された長篇小説を思わせる時間の使い方があるから空海のこの書はすごいのだと思う。ウェーベルンやベルクの管弦楽曲を思わせるそれである。

大学講義90分が耐えられない学生たち 「倍速視聴や飛ばし見ができないのは苦行」https://www.moneypost.jp/937196

こういう記事があったが、よい講義は、たぶんよい長篇小説と同じで、時間の流れを日常のそれとは切り離すのことができる。学生は、日常生活の延長として大学の講義もあってもらいたいと言っているに過ぎない。

言文一致体というのは、文体の口語化と思われているが、ほんとは文体じゃなくて精神的な姿勢みたいなものである。日常の文体を他者の人生にそったものにしてしまう精神の表れである。田中希生氏の今年の本から私はそれを再確認した。それは日常に接近しようとする戯作のそれとはちがう。我々が文体が揃ってきてしまうのは、言文一致が戯作的な意味になってしまっているからというのもある。ネットの一部では、学生のレポートの書き出しに「**というのをご存じだろうか」というのが増えてきていると話題になっていた。これもレポートの日常化であって、学生の頭脳の問題ではない。

たいがいの学生は、文体は自由だと思っている。しかし、言葉が違うということは意味が違うということであって、ある文体を獲得しないと自由が生じないことがある。漢文の素読とかを経験していた世代や西田幾多郎がなぜかすごいのを実感していた世代には自明の理だったが、いまはそれが実感しにくい。学問とか批評の文体には、なにか漢文とはちょっとちがうが似たような、意味内容の圧縮の快感(時間の圧縮の快感)みたいなものがある。これがないから「ご存じだろうか」とか「と考える」とか言って冗長な日常に片足をかけてしまう。教師は、そこは言い回しを禁じることを恐れずに、学生を日常の時間から切り離すことを試みるべきである。

尽十方の無碍の光明と謎

2022-08-15 23:28:23 | 思想


おおよそ、今生においては、煩悩悪障を断ぜんこと、きわめてありがたきあいだ、真言・法華を行ずる浄侶、なおもて順次生のさとりをいのる。いかにいわんや、戒行恵解ともになしといえども、弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたり、報土のきしにつきぬるものならば、煩悩の黒雲はやくはれ、法性の覚月すみやかにあらわれて、尽十方の無碍の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにてはそうらえ。

はたして親鸞がこういう言い方をする人物だったかは疑問なのであろう。しかし、教化はさまざまなプロセスをとるので、教師もいろいろ矛盾したことを言わざるを得ないことはあるかも知れない。もっともあまりにそういう手段が目的にひっくり返った人物は、しまいにゃナンデモアリだとか言うて、他人に暴力をふるうようになるものだ。馬鹿は死んでも治らない類いは、たいがいこういう逆立ちバカなのである。

こういう逆立ちでも頭が良ければ、ヘーゲルのように逆立ちしたまま大著を書いたりできるのであろうが、大概は自分の罪を購うだけで一生を終える。

それでは一體、何のつもりでお前はこの物語を書いたのだ、と短氣な讀者が、もし私に詰寄つて質問したなら、私はそれに對してかうでも答へて置くより他はなからう。
 性格の悲喜劇といふものです。人間生活の底には、いつも、この問題が流れてゐます。


――太宰治「瘤取り」


太宰も、性格の悲喜劇をかきつづりながら、いずれバルザックのような作家になっていきたかったのであろうか。しかし、そうは都合良く行かなかった。彼の意志とは関係なく、彼は罪のために生きることとなったのである。透谷の恋愛観からすると、彼のものは恋愛じゃなくて、どっちかというと現実界の挫折に過ぎないんじゃないかと思うかもしれない。しかし、透谷の自殺がなにか謎を残さない感じなのに、太宰は残している。唯円の「煩悩の黒雲はやくはれ、法性の覚月すみやかにあらわれて、尽十方の無碍の光明に一味にし」云々という中にも、そういう謎はない。

こつこつ他力

2022-08-14 22:57:12 | 思想


「一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべし」ということ。この条は十悪・五逆の罪人、日ごろ念仏を申さずして、命終のとき、初めて善知識の教えにて、一念申せば八十億劫の罪を滅し、十念申せば十八十億劫の重罪を滅して往生すといえり。これは十悪・五逆の軽重を知らせんがために、一念・十念といえるか。滅罪の利益なり。

そりゃそうなんだろうが、人間、案外、行為の効果をちゃんと示されるとやる気が出てくることもあるから、お前の八〇億の罪を消したいんなら、八〇億お経を唱えろ、根性でやり遂げろ、はいはじめっ、と言われるやるやつはいる。

なんだか、深い日本文化の世界は、どことなく、AをすりゃBとなるという単純さの持つ魅力を、場所における不確定な作用とか、しらないうちに自我が出来てました、みたいな理屈で回避したがるところがある。確かに自分の認識の範囲なんか嘘に決まっているが、他力の作用を待つことで、――ウルトラマンや怪獣が来ないかな、みたいな生き方になりがちなのもたしかなのである。

すると、我々は何かに使われていた方が楽ということになる。ウルトラ警備隊に雇われた気分になってりゃ、安保条約や憲法について考えなくてもいいわけだ。実際、我々の社会は、戦いによって根源的な不安を覆い隠している。確かに戦争はしていないが、高校野球とか受験がそれにあたる。PLにしても大阪桐蔭にしても、よくわからんがたぶん契約があって(――清原氏が甲子園に出たらピッチャーをやることになってたらしい。実際に投げてた。)、プロ野球と一緒で、高校球児を雇っていると見た方がよいのだ。しかし、これは進学校もおなじで、成績のいい子を雇って自分の学校の進学実績にするわけだ。ほんと「チーム学校」とはよく言ったもんだよな、洒落じゃないんだよこれは。

18まで学校+塾/あるいは部活ということで、強制的に残業させられて、精神的に親と教師にたよったまま四年間就職活動をしてまた残業生活に戻る。我々の雇われ人生はかくして終わらない。常識的にかんがえて、これで世界的に活躍しようというのが無理なのである。自分の勉強をずっとしてないからである。自分の勉強は、自分のための勉強ではない。自己肯定感みたいなもんは後者をやってるうちはだめなんじゃないか。本居宣長とネ★ウヨさんのちがいみたいなもんである。

我々の内省は、自己批判をしたら、自分が否定されただけでおわるようになっている。そりゃ、雇われ仕事(戦争)をこなすための勉強をしてきたからである。自分の勉強は、自分に対する勉強であって、これがないと、誰かが指示してくれなくなるような危機が訪れたときに弱い。本当は、親鸞は、他力を言っただけではうまくいかないことを分かっていたのではないかとおもうのである。他力というのは、自分の勉強をすることなのである。

信について

2022-08-13 23:25:43 | 思想


「唯円房はわが言うことをば信ずるか」と仰せの候いし間、「さん候」と申し候いしかば、「さらば言わんこと違うまじきか」と重ねて仰せの候いし間、つつしんで領状申して候いしかば、「たとえば人を千人殺してんや、しからば往生は一定すべし」と仰せ候いしとき、「仰せにては候えども、一人もこの身の器量にては殺しつべしともおぼえず候」と申して候いしかば、「さてはいかに親鸞が言うことを違うまじきとは言うぞ」と。「これにて知るべし、何事も心にまかせたることならば、往生のために千人殺せと言わんに、すなわち殺すべし。しかれども一人にてもかないぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わが心の善くて殺さぬにはあらず、また害せじと思うとも百人千人を殺すこともあるべし」と仰せの候いしは、我らが心の善きをば善しと思い、悪しきことをば悪しと思いて、願の不思議にて助けたまうということを知らざることを、仰せの候いしなり。

吉本隆明の「歎異抄について」をはじめとして、歎異抄の後半は唯円の護教的なところがあるといわれていて、そうかもしれないとは思う。本多顕彰も、仙人殺すというのは縁なんだよ、みたいな大げさなエピソードがいるか、いらないだろう、と言っている。

それにしても、大物の宗教者があんまり本を書かずに、弟子が書いているのはなぜなのであろうか。

思うに、その人を見て耳で聞いた認識よりも、文字が当てにならないというのはある。教師たちが書く文章はほとんど信用出来ない。なぜか嘘ばかりかく習性すらある。ほんとうの姿は、教え子たちにしかわからない。――というのは不正確で、教え子もそれを文字にしようとすると嘘をついてしまうのだ。

しかしだからといって、吉本のように「人間がなくして浄土が要るか、これが彼が抱いた確かな思想だ」とだけ言ってればよいというものではなく、――吉本自身も、それから膨大な親鸞論を書くに至る。

言葉はいまだに呪いであることをやめていない。吉本もそれは分かっていて、呪いを超えた境地に到達しようと量に期待した。彼は弁証法論者なのだ。

さっきテレビで、「鎌倉殿の13人」の脚本の方が、読書感想文の書き方みたいなものをふざけてやってて、もちろん、これはふざけているわけだが、これを本気でとる人が結構いそうなのがまずいわね。。。。現実にショートカットにつながる言葉という呪いが、我々に掛かっている。こうなるとどうなるかと言えば、例えば「無知の知」なんかも、それが現実の物語であることをやめて、一度ガス欠したバイクみたいに、故障しやすくなるというのがある。それは「知」に過ぎなくなっているからである。

学問と罵倒

2022-08-12 20:52:35 | 思想


いまの世には、学文して、ひとのそしりをやめ、ひとへに、論義問答むねとせんと、 かまへられさふらうにや。学問せば、いよいよ、如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、 「いやしからん身にて往生はいかが」なんど、あやぶまんひとにも、本願には 善悪・浄穢なき おもむきをも、とききかせられさふらはばこそ、学生のかひにてもさふらはめ。たまたま、なにごころもなく、 本願に相応して念仏するひとをも、「学文してこそ」なんどいひをどさるる こと、法の魔障なり、 仏の怨敵なり。みづから、他力の信心かくるのみならず、あやまつて他をまよはさんとす。つつしんでおそるべし、先師の御こころにそむくことを。かねてあはれむべし、弥陀の本願にあらざることを。

学問をやればいいのかよくないのかどっちなんだよ、と言いたがる人々は多いが、そういうすっとこどっこいはさっさと勉強してもらったほうがいい。まだバカを発揮するのに猶予が出来るからだ。

そういえば、東大のある先生が、本に批判や感想などを書き込みながら読書するという方法をある塾のパンフレットに書いていた。それ、むかし私もやってたけど、それは自分でそのやり方に気付きその副作用もなんとなく自覚してやったからというのがあるんで、学生にはあまりすすめない。いまの学生にとって、むしろ長いスパンでの読み取りが難しくなり、悪影響が心配される。学生によるが、多くの人いま必要なのは、自分の思ったことをすぐに口に出さず、意見としてまとめる欲望にストップをかける訓練だと思う。

学問が煩悩をドライブする形になっているのが、いまの教育である。すぐハイハイ!と手を上げて意見を言ってしまう国民は、主体がもう存在者となっているからいいのだ。われわれみたいな、欲望のためには必死になって言葉を発するが、そうでないときには何もしない自由を優先する人たちに、言葉を発したほうが勝ちと聞いたらとりあえずしゃべり、それが何もしないことの保証になっている。感想を持つスピードより、仕事をやり遂げるスピードはとうぜんながらかなりゆっくりしたものだ。口先の感想を振りまきつつその実何もやってない人間をこれ以上増やさないために、やるまで黙る教育をした方が良い気がするのである。

本多顕彰によれば、ドイツ文学の池山栄吉は仏教者としても有名で、本多が第六高等学校に参観しにきたときに、彼を連れてずっと念仏を唱えていたそうである。本多は、学問によって名誉欲にとらわれるのはいかんと彼は思っていたという。それにしても常軌を逸した先生である。こんな変人はいまは大学の中にはなかなかいないのではないか。

念仏は意味であって意味に非ず。欲望を言葉によって無化してゆく作用があるのである。そういえば、中沢啓治の罵倒なんかもそうだ。『げんこつ岩太』なんか名言のオンパレードで、主人公の岩太がお経を唱えているやつであることもあるが、彼が発する言葉、彼に発せられる言葉がまるで念仏なのである。

「おまえみたいな独断と偏見と差別感にあふれた★ソババアは早く死ねっ」
「親不孝者今頃わかったのか早くクソして死ねっ」
「お前は日本の害虫だ」
「この変態バカ早く死ねっ」
「お兄ちゃんウルトラ光線があたったぞ早く死ねよ」
「うううあんたバカみたいな顔しているけどいいこと言うのね」

こんなに「死ね」がすがすがしい朝顔のような感じになってるのは中沢啓治だけである。この口まねをして堕落したネット民は、その悪口自体が目的化して、つまり唯円が言う学問が目的になってしまったバカ共とおなじで、もともと根性がおかしかっただけだ。中沢のせいではない。

信じなさい、方便だから

2022-08-11 23:44:12 | 思想


誓願の不思議によりて、やすくたもち、となへやすき名号を案じいだしたまひて、この名字をとなへんものをむかへとらんと、御約 束あることなれば、まづ弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまゐ らせて生死を出づべしと信じて、念仏の申さるるも如来の御はから ひなりとおもへば、すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆ ゑに、本願に相応して実報土に往生するなり。これは誓願の不思議 をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号 の不思議ひとつにして、さらに異なることなきなり。つぎにみづか らのはからひをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたす け・さはり、二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わ がこころに往生の業をはげみて申すところの念仏をも自行になすな り。このひとは名号の不思議をもまた信ぜざるなり。信ぜざれども、 辺地懈慢・疑城胎宮にも往生して、果遂の願のゆゑに、 つひに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。これすなはち、 誓願不思議のゆゑなれば、ただひとつなるべし。

本多顕彰は、名号不思議を信じることなしに念仏をとなえるやからでも、辺地懈慢・疑城胎宮みたいなところにさしあたり行ってから、いずれ成仏するみたいなことを行っている唯円に対して、「現代人はしんじなくていい」と言っている。本多氏は、むろん、現代社会というのはこういうさしあたりここに行けますみたいなものが横行しているのを知っているから、余計感情的になって否定したのだ。

我々の精神的風土で、宗教が「ひたすら信じなさい」ということを強調しなければならないのには理由がある。我々が信じるのはいつも方便だからである。例えば、今日もやってた高校野球や、吹奏楽コンクール、大学入試などが青春の何かではなく、生涯をかけた何かになっていることは、――「源氏物語」に出てくる、「才を本にしてこそ、大和魂の世に用ひらるる方も強ふ侍らめ」にある発想をちょっと思わせるところもある。才は外国から入ってくるやつで、野球も音楽も勉強もそうなのだ。ちなみに近代戦争もそうであって、大和魂という自分そのものに達するための方便なのである。一生懸命やってるが、「信」じてはいない。しかしだからこそ、意志の力で自分をたきつけなければならないので、自然と軍隊式の努力になってしまう。

人間の死に対してもそうである。いろいろな考え方が、外から入ってきてわけが分からない。だから、大げさに祀ってみる。「終戦記念日」とか「原爆の日」などは一種の国家祭祀化してきているわけだが、その威力の減退と今回の安倍氏の国葬というのはやはりまあ関係はあるわけである。むろん、前者の国家祭祀には戦争責任とか体験の刻印が押されていた天皇の存在感が大きかったわけで、これが今の天皇のようになくなったことは大きい。靖国だって政治的イコンになりつつある。代わりになる方便が必要なのである。

こういう方便が全面化したのが現代の日本である。統★教会の問題がうまくいかないのは、もう娑婆の世界もどこぞの宗教ですか、サティアンですか、みたいな感じになってるからだ。宗教団体に洗脳されなくても、自らを洗脳することなんかうちの国は簡単にやってのける。それが方便としての洗脳だからなのである。

学校の世界ももともと人工的に共同性を演出しなければならない関係上、いつもカルト臭はするものであるが、昨今は、それが全員に対して行われなければならないというんで、思い切りレベルがさがっている。――すなわち、「先生になろう」とか「医者になろう」とか夢をかなえようみたいな掛け声が就職政策に関して使われるが、大人の頭脳を持つ学生にこういう小学校低学年に何かやらせるみたいな感じでけしかける、これほとんどやばいカルトのやり方だ。頭はおかしくはない。本気ではないからだ。――しかし、そういうことが許されるのであろうか。

無義と忘却

2022-08-10 23:06:32 | 思想


念仏には無義をもって義とす、不可称・不可説・不可思議のゆえに、と仰せ候いき。

なにかをしようとして念仏をするんじゃないのだ、その意味というのは、言うことも、説くことも、想像することもできないのだ。あるいは親鸞は、西田幾多郎の「純粋経験」みたいなことをいいたいのであろうか。我々は関係する意味をつい持ち出して、そんなことを考えなかった時間までなくしてしまうのであった。しかし、他方、考えていたことを忘れ、苦悩している場合もあると思う。

中国がかつて近代化でごたごたしたのは明らかに科挙制度で勝ち上がっただけのお馬鹿さんが威張っていたというのがあるはず。科挙は少数のエリート意識があったのに対して、日本のセンター試験(共通テスト)は違うと思いたいひともいるだろうが、そうでもないと思う。より多くの人間の頂点付近にいるということでよりやっかいだと思う。私の知り合いでも、人間、一つの基準で一斉に競争させればがんばると思っている★大出身のやつがいる。しかし現実は逆で、ほとんどの人が負ける「競争」で、そのほとんどの人ががんばると思うか?競争はやりたい専門家同士で勝手に自由にやればよいし、じっさいやる。最初は、お上が主催するレースで勝ちたいと思うやつはそういうマインドのやつだけであるが、学校の受験制度がそれをすべての人間に強制し始める。すると、きがついたらお上がレースを主催しないと何もやらない人間たちが教員になったりして、自由な専門家集団と入れ替わってしまうのである。

むろん、学校や企業など、金儲けの集団は、そんなお上に従順な連中を生産してくれるというんでそりゃ歓迎だというわけだ。国家と商人がかくして目的を一致させているのはどっちが悪いと言うより、もともとそういう紐帯をもっているのが資本主義というやつだというのが、マルクスの言っていることだ。

そんなことは、共通一次試験の是非を議論していた連中はみんなわかっていたはずなんだが、ただ、いまは忘れてしまったわけなのである。そういう場合には、忘れてしまうことの合理化として、ただ念仏せよとか、純粋な魂だとか言う馬鹿が出てくる。しかしこのひとたちはまだ素直な方であって、よのなかもっと狡賢いタイプがだいぶいるのであった。しかし親鸞は、そういう連中は勝手に地獄におちると思っていたのかもしれず、日蓮の方が素直に狡賢い人間に怒っていたような気がする。

煩悩があっても大丈夫なのか?

2022-08-09 23:40:17 | 思想


久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生まれざる安養浄土はこひしからず候こと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまいるべきなり。いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひまなしと云々。

我々は煩悩に満ちており、それを取り除くことはできない。しかしだからこそ往生出来るものであって、逆に念仏唱えてイイキモチになっているのはその煩悩に気づけないセンスの悪さだ、と親鸞は言う。

もっとも、煩悩にもいろいろあるので、念仏しても踊躍歓喜しないので不安な唯円は、なにかとても念仏でどうにかなるものでもなさそうな罪を抱えていたのかもしれない。親鸞は、ひどいやつほど救われようとは言うが、いくら何でも思う場合があるであろう。極楽往生は出来るかも知れないが、当時はしらないうちに弾みで恨まれて殺されるなんてことがあった世の中なのである。煩悩は自分のなかにもあるけれども社会関係としてもあり、その絡まり合った糸まで往生出来るわけではあるまい。むしろ煩悩が心の問題だと思い切れるのは孤独な坊主だからではなかったであろうか。

夏目漱石の「吾輩は猫である」というのは、この断定がある意味気持ちよいと同時に気持ち悪いものである。それはこの猫の断定的な批評に突っ込むやつがいないからであり、作者はたまらず、猫を殺してしまったのだ。猫は坊主のようなものであり、孤独なのだ。その罪は世の中の偶然というか、運命による他はなかった。しかしれっきとした殺人者がいて、それが作者である。中勘助がこういう下品な作品はキライみたいなこと言ってたのがわかる気がする。中勘助の小説は、つねに他人の気持ちばかりが、つまり他人との情緒ばかりが書かれているからである。

「仮面ライダー」というのも、孤独な人間を英雄としてえがいていた。それはなにか復讐を世界の平和と無理やり言っている哀しさがあったからである。ある団体に改造を受け、家族も殺され、けれども魂は売らなかったぞ復讐してやる、というストーリーで、――よく考えてみたら、あまり今日しゃれにならん設定である。ネトウヨが左翼になるとかいうレベルではない。転向ではなく、復讐が目的になった人生というものがあるのだ。これは他人との情緒がありながら孤独を持ち運ばなければならない。こんな罪は許されるのか、否か。

他力と国語

2022-08-08 23:03:26 | 思想


念仏は行者のために非行・非善なり。わが計らいにて行ずるにあらざれば非行という、わが計らいにてつくる善にもあらざれば非善という。ひとえに他力にして自力を離れたるゆえに、行者のためには非行・非善なり、と云々。


念仏は自力の心を離れ他力自然に行われるものである。これが他人や場所こそが主体でみたいな論理に滑り落ちていったのが、戦争の頃であった。あくまで念仏は言葉であり、自力は否定されているとは言え、自らはじめなければ他力はなく、にもかかわらず自ら始めることに他力の力があることを自覚する必要がある。それが「非」の効果であり、我々は自己否定的にしか行為出来ないぐらいの論理のほうがよかったのではないかと思う。

母国語と自分の習った言語とは決して相対的にはならない。無理にそういう風に考えると、我々は我々自身に対する繊細さを失う。その繊細さは、我が国に宿命的な自己否定的な契機への自覚である。鷗外や漱石はバイリンガルみたいな相対性を持っていたんじゃないかと思う人もいるだろうが、彼らの國文的な語彙と修辞レベルはそもそもすごいわけで、あのレベルに達したやつだけが、それ自体同じようにすごいレベルをもった外国語に対する相対性を言うことが出来る。貧しい外国語の習熟レベルに母国語あわせてどうすんじゃ。

「現代の日本語」というのは純粋には存在していない。その実、漢文、古文、流行語、造語、種々の外国語の変形物の鵺的な混合体で、この混合の妙がわれわれをつくっている、それがいわば口語としての「国語」なのである。それが「妙」なのは、その混合を自分で再体験することによって自覚されることだからである。それが我々の日本に対する自覚である。そのようなあり方がいやならむしろ外国語を全面的に強制した方がはやい。外国語を公用語にすればよいじゃんみたいなエリートはずっと昔からいたわけだが、それが実現しない理由をかんがえないで、日本語に閉じこもるのは今や無理とかいう主張をしてんのは、きわめて伝統的なものである。彼らのなかで、「国語」の鵺的頑強さと蕪雑さの不思議に立ち向かったものだけが、作品を残した。そしてそれは大概、日本の権力とは何かという考察に満ちている。それは当然で、鵺としての主体は日本の権力にあるからである。それを三島由紀夫なら皇室と言うであろう。

そういえば、私が中学で英語の授業が厭だったのは、こっちの頭は外国の文学のシーンであふれかえっているのに、「おはよう」「これはペンです」から入るのが精神的に許せなかったというのはあるのだ。はやく文学作品を購読してもらった方が俺は楽しかった(ついていけたかはわからんが……)。文学教育としての小学校の「国語」教育がうまくいきすぎていたのかもしれない。国語の時間は日本語の練習をしているのではなくて、日本文化の吸収をしているとみなすべきなのである。そのレベルを気づけなかった人たちが、国語をコミュニケーションの道具にまで分解しようとしているが、分解したものはもはや言語ではない。コミュニケーションというのは情緒なのだ。それでおれたちは辛うじて生きているわけである。英語教育がそうであるべきなのかは専門じゃないから分からないが、空疎なコミュニケーションの練習に耐えられないやつはつねにいるはずだ。

コミュニケーション能力がないとかいう人間が増えているのは、情緒であるところの言葉のやりとりを、言語の「コミュニケーション」として行おうとした結果、コミュニケーションが実現しないからに他ならない。自分たちで自分たちを病人に仕立てているわけだ。それにしても、「源氏物語」と「罪と罰」を通読したことのないやつとはお話ししたくありません、とか学生に言っちゃうおれはダメ。

無碍の一道に縋る

2022-08-07 16:23:10 | 思想


念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなきゆえに、無碍の一道なり、と云々。

これが「一道」であるかぎり、かなり長い時間をしめすものとかんがえなくてはならぬ。念仏を一生懸命唱えるものには一貫性が生じる。念仏を唱えるとは、そのときだけ唱えるのではなく、ずっと唱える「者」になることである。

われわれにとって怖ろしいのは、時間である。我々は無常観とかそれを呼んできたのだが、その平板な語感に比べて実際の意味するところは、有が無に転ずるところの虚無の表現である。東浩紀氏の「平成という病」(『忘却にあらがう』)はそういう無力感に溢れた文章である。東氏は、平成が始まった頃は、自分もホリエモンもわかく、変革への希望があった、が社会はそう簡単にかわらない、と述べている。社会のためではなく自分のできることをしましょう、と彼は言う。自分の出来ることとは、上の念仏のようなものである。

私は平成が始まった頃にかなりの無力感に苛まれていたし、80年代の浮遊感の方への絶望が中・高とあったこともあって、同じような年代でも絶望のあり方はかなりちがうんだなと思った。近代のエリートリベラル知識人たちが、揃いも揃って歎異抄に帰依して行くのは、ひそかに社会のせいにしたいという欲望の現れかも知れず、それを自分の出来ることを、というせりふで封じ込めているためではないだろうか。私は幸運なことに、はじめから希望がないのでまだそうはなっていない気がする。

青木理氏の『安倍三代』は、安倍晋三氏が政治家への立身とか葛藤とは無縁で全てに於いて平凡で凡庸であったことを空虚さとして見ているところがある。しかし、その平凡さと凡庸さというものは、人間関係の調達への努力、ものすごく神経を使う生き方が必要なのだと思う。勉強が出来たり政治意識が高かったりするとそれが空虚にみえるが、むしろその努力と神経質さを欠落させて優等生やリーダーというものに子どもはなるところがある。安倍氏の周囲の人間がそろって学生時代の彼を平凡だと認識しているということは彼の努力が実っていたということだ。

人に合わせたりさぼるだけでは平凡さと凡庸さにたどりつくことはできない。そういえば、わたしもそうだったからそう思うのかもしれないが、彼が熾烈な受験を経験していないということは、苦労もしていないかわりに疲れてもいなかったんじゃないか。大学以降学び始める人間というのもいるのだ。安倍昭恵氏が言ったという「安倍晋三には天命がある」みたいなものも本当だとしたらすごくそういう人間は強いぜ。右も左もイデオロギーをシステムの効果みたいに相対化してしまっている多くの人間とは比べものにならんほどつよい。わざわざ、念仏にすがらくても天命に目覚めればよいわけである。それは、小さい頃から押しつけられる目標に向かって努力せず、ぼやっとしかも周到に平凡さに向かって成熟していった場合、そういうことがあり得ると思うのである。

それほど社会が学校化していない時代、安倍氏のような天命を持つ人間は案外多かったし、いままた多くなってきていると思うのである。

師の恩

2022-08-06 17:52:46 | 思想


専修念仏のともがらの、わが弟子、人の弟子という相論の候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたず候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。弥陀の御もよほしにあずかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信心を、わがものがほに、とりかへさんと申すにや。かへすがへすもあるべからざることなり。自然のことわりにあいかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々。

親鸞は師の恩というものを否定しているわけではなく、それが存在するためには、仏恩が存在している必要があるというのである。それはそうである、師というのは伝道者に過ぎないのだから。

本多顕彰の『歎異抄入門』の上記の箇所の解説を読むと、最近の学生が恩知らずなのは、彼らが学費を苦しんで払っているにも関わらず、それが大したことのない額のために?、師である自分たちに十分な恩(給料)を返すことが出来ないためである、すなわち学費は全部国庫負担にせよ、みたいな怖ろしく煩悩的な話をしていて、――「こんなところで興奮してはならなかった」と言っているのだが、やはり歎異抄好きは煩悩に塗れているようである。

本多は怖い先生で通っていたらしい(ご自身がそう言っている)のだが、本当はどんな恐ろしさであったのだろうか。彼の『大学教授』(カッパブックス)は昔のベストセラーだが、これをよむと結構な良心的な人であるようにもみえる。口は悪いが。

戦時中、徴兵猶予のために大学に学生が殺到した時期があったようだ。しかし、つぎつぎに学生が徴兵にとられるようになって、その不安定な学生に学問を強要するのは気が咎めるようになっていったと本多は言う。こういうところが普通の人情派である。いまだったら、就職活動で不安定な学生に勉強を強要するのはどうかと懊悩するようなタイプである。わたくしは、そういう学生にはむしろ学問を強要する。不安は他人に対する脅迫である。本当は不安ではなくて生き方の方に問題がある。

確かに憂き世では、ことごとくに何もかもが、困難の表情をしてせまってくるので、どうしよう涙が出てきちゃう、という感じで生きている人はいるものである。たいがいの研究者はこれに比べればほとんどジャイアンみたいなやつであることを忘れてはならぬ。私もジャイアンの一味であろうが、ジャイアンにも種類がいて、懊悩して学生に甘くなるジャイアンもいるだけのことだ。

他力と蝉

2022-08-04 21:40:48 | 思想


親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず。そのゆえは、一切の有情は皆もって世々生々の父母兄弟なり。いずれもいずれも、この順次生に仏に成りて助け候べきなり。わが力にて励む善にても候わばこそ、念仏を廻向して父母をも助け候わめ、ただ自力をすてて急ぎ浄土のさとりを開きなば、六道四生のあいだ、いずれの業苦に沈めりとも、神通方便をもってまず有縁を度すべきなり、と云々。

というわけで、我々をとりまくあらゆるものが仏である、またはありうるということで、庭の蝉にスマホのカメラを向けていたところ、しゃっとおしっこをして飛び去っていった。こやつは将来、おしっこを垂れ流す人間の子どもに生まれ変わる可能性がある。

自力と他力の議論は、歎異抄の世界に於いて重大な問題なのだが、我々の世界は、自力と他力の中間に膨大に広がる世界で右往左往している。つまり主観でも客観でもある世界が広がりすぎたのであった。スマートフォンもメディアの一種である。むかし、写真とは絵の一種であったが、最近は情報に寄っていっている。我々は自力でも他力でもない何かに意識を乗っ取られた。最近「中動態」の議論が流行るのも、古いものの発見であるよりも自分の発見である。

そうしたときに、自力の善が不可能である場合に、他力によって仏と成り他人を救うというやりかたが、どこまで可能なのであろう。

海が彼らの交通を遮断するのは当然ですが、なお少しは水を泳ぐこともできました。山中にはもとより東西の通路があって、老功なる木樵・猟師は容易にこれを認めて遭遇を避けました。夜分には彼らもずいぶん里近くを通りました。その方が路が楽であったことは、彼らとても変りはないはずです。鉄道の始めて通じた時はさぞ驚いたろうと思いますが、今では隧道なども利用しているかも知れませぬ。火と物音にさえ警戒しておれば、平地人の方から気がつく虞はないからであります。

――柳田國男「山の人生」


確かに柄谷行人がスキそうなエピソードであり、他力と自力とかはこういう交通=他者性に欠けているとは言えるかも知れない。もっとも、問題は柳田もまた実際の山人にあったかどうかは分からないことであった。だから、柳田のような緊張感からの覚醒に於いて、われわれはまた自分が生きていることそのもの、存在の議論に向かうであろう。