信心の行者、自然に腹をも立て、悪し様なる事をもおかし、同朋同侶にもあいて口論をもしては、必ず廻心すべしということ。 この条、断悪修善のここちか。一向専修の人においては、廻心ということただ一度あるべし。
廻心が一度しかないというのは確かにそうである。我々はたいがい数限りなく回心を繰り返しているので、それに何の価値のないことを言っているのである。といすると、たぶん一度もないというのが現実的な判断だ。
我々の日常というのは、絶え間のない情報の摂取によって、そのつど回心を起こしているといってよいので、この反復動物的な状況を覆すためには日常の時間の流れ自体を覆す必要がある。定期的に、論文ではなく、研究書を一冊精読するようなことをした方が良いのは、長篇小説を最後まで読んだ方がいいのと同じで、こちらの世界観を変えるためにはそうしなきゃ無理だし、最後まで読まないと筆者が何をしたかったのかはわからない。研究者にかぎらず、つまみ食いの癖は読書をし続けるにはいいことである側面があるが、読者が自分の認識に閉じこもる癖とも繋がっている。当然、ネットの言説はつまみ食い的に読まれるので、ネットを閲覧する人たちはそうなりがちなのである。ネット空間が、空間である限り、我々の日常と違いはない。
松岡正剛氏が、「三教指帰」から編集のありかたを摑んだと言っていた。これはすごく高踏的な感覚で、その感覚自体編集的な精神の働きである。わたしなんかは、どちらかというと、圧縮された長篇小説を思わせる時間の使い方があるから空海のこの書はすごいのだと思う。ウェーベルンやベルクの管弦楽曲を思わせるそれである。
大学講義90分が耐えられない学生たち 「倍速視聴や飛ばし見ができないのは苦行」https://www.moneypost.jp/937196
こういう記事があったが、よい講義は、たぶんよい長篇小説と同じで、時間の流れを日常のそれとは切り離すのことができる。学生は、日常生活の延長として大学の講義もあってもらいたいと言っているに過ぎない。
言文一致体というのは、文体の口語化と思われているが、ほんとは文体じゃなくて精神的な姿勢みたいなものである。日常の文体を他者の人生にそったものにしてしまう精神の表れである。田中希生氏の今年の本から私はそれを再確認した。それは日常に接近しようとする戯作のそれとはちがう。我々が文体が揃ってきてしまうのは、言文一致が戯作的な意味になってしまっているからというのもある。ネットの一部では、学生のレポートの書き出しに「**というのをご存じだろうか」というのが増えてきていると話題になっていた。これもレポートの日常化であって、学生の頭脳の問題ではない。
たいがいの学生は、文体は自由だと思っている。しかし、言葉が違うということは意味が違うということであって、ある文体を獲得しないと自由が生じないことがある。漢文の素読とかを経験していた世代や西田幾多郎がなぜかすごいのを実感していた世代には自明の理だったが、いまはそれが実感しにくい。学問とか批評の文体には、なにか漢文とはちょっとちがうが似たような、意味内容の圧縮の快感(時間の圧縮の快感)みたいなものがある。これがないから「ご存じだろうか」とか「と考える」とか言って冗長な日常に片足をかけてしまう。教師は、そこは言い回しを禁じることを恐れずに、学生を日常の時間から切り離すことを試みるべきである。