仏・御年・七十二の年・摩竭提国・霊鷲山と申す山にして無量義経を・とかせ給いしに四十余年の経経をあげて枝葉をば其の中におさめて四十余年・未顕真実と打消し給うは此なり、此の時こそ諸大菩薩・諸天人等はあはてて実義を請ぜんとは申せしか、無量義経にて実義とをぼしき事一言ありしかども・いまだまことなし、譬へば月の出でんとして其の体東山にかくれて光り西山に及べども諸人月体を見ざるがごとし、法華経・方便品の略開三顕一の時・仏略して一念三千・心中の本懐を宣べ給う、始の事なればほととぎすの初音をねをびれたる者の一音ききたるが・やうに月の山の半を出でたれども薄雲の・をほへるが・ごとく・かそかなりしを舎利弗等・驚いて諸天・竜神・大菩薩等をもよをして諸天・竜神等・其の数恒沙の如し仏を求むる諸の菩薩大数八万有り・又諸の万億国の転輪聖王の至れる合掌して敬心を以て具足の道を聞かんと欲す等とは請ぜしなり
七〇歳になって、「いままで言ってきたことは何となく違ったわ」と言い出した釈尊であった。弟子たちはビックリして、――ではなく、ほんとはちょっとよくわからなかった、という感じなのだ。だから、月が出ようとしているが東山にかくれ光だけ西山に届いている状態であった、と日蓮は言う。――この比喩もよく分からんが、本体でなくても光の威力はすごいといいたいのであろうか。いや、やはり光は単に光であった。日蓮は言う、まるで、不如帰の初音が寝ぼけた頭で聴いてるような感じである、とにかくぼうっとしているのであり、月が更に半分でても薄雲に隠れているようであった、と。
確かに、真実とは、一部は分かっている感じがするけれども、いつもぼやっとしているものだ。だから、教えを求める強い意志が必要なのである。日蓮はそう言っているように思われる。我々は既に菩薩である。だから安心して行を行うべし。欠損を抱えていても菩薩は菩薩である。日蓮の言っていることは、今で言えば、強烈な自己肯定感のようなものではなかろうか。勉強するにはそれがひつようなのだ。そのために、法華経を信じない弱者を信じる強者として葬り去ることも厭わないのである。
しかし、現代では、自己を保護されることでその肯定感を得ようとする正義としての弱者主義が浸透している。これが今までの正義としての強者を目指す教育を崩壊させつつある。あまりにひどい行動や発言に対して激怒すると下手するとハラスメント扱いにされ、寄り添いがたりないとされてしまう、――しかしそれでどれだけ結果的に弱者としての悪を放置するどころか肯定してしまっているか考えてみたほうがよい。正義によって正義を崩壊させてしまってるわけであるが、もともと我々が学校に過剰に依存的であったことが原因であるような気がする。
その依存性は強く、学校を守るためにはけっこう巧妙な手をマジョリティは使うものだ。例えば、発達障害の議論の教育現場への雑な適用は、明らかに「発達障害は怒れないし事実上教育は出来ない。したがってどこかに放置・隔離する他ない」という方向を生み出している。放置されてしまっていろいろ身についていない子どもが大学や職場で、排除の対象になる。入試や面接の目的のなかにそれが暗に入り始めている。これは明らかに意図的な方向性である。
そういえば、以前、専門家?からたぶん発達障害だと聞いたその学生に逢ってみたら、――確かにそうなのかもしれないが、コミュニケーション上は非常に批判精神旺盛な学生に過ぎなかったことがある。指導に苦労したという教師の怨恨は、発達障害という観念を得てあらゆる方向をとるのである。やっかいなことではあるが必然的な流れではある。極言すればむかしの「不良」の扱いと同じことが起きているわけであるが、わたくしは、教師たちにもやや同情はするのである。
機械ではない人間であるとこころの教育者の基本的な方向性として、単純性というものが必要だ。つまり例えば、「楽しく授業やってやるぜ」とか「子どもとのやりとりは気分的に明るくなるね」とか「俺の専門性が子どもに感染したぜ」とかが必要で、そうでないと逆にいろいろなことを繊細に処理出来ないものである。いまははじめから計画的に気にしなければいけないことが多すぎて、結果的に窮余の「優先順位」という観念によって無視せざるをえない事柄が多くなるわけだ、そして教育の手数が減っているのだと思う。そして教員本人も出来た振りをしたという欺瞞に苦しむことになる。児童や生徒たちは当然そこに気付くことになるわけである。
教員以外の労働者と一緒で、職場のストレスを感じている状態では逡巡する時間が多くなり、結果的に仕事のペースも量も減ってしまう。でもしんどいからもっと減らしてもらいたいと「ブラック」なんて批判を使って実力行使にでる。それは、いまの教師たちがすでにいまどきの教育で育っているからというのもある。つまり、ミスをなくすためにいろいろな指示を列挙されてそれを遂行するようなやりかたで育っている。すると、出たとこ勝負で様々なことに気付く能力が深刻なほど下がってしまうのである。職場や大学で起こっていることはそういう人間に対する驚愕や絶望であり、その衝撃をややこしくしたくない年配世代がこに対しまた指示の列挙で対応する。そして指示された方はその量の多さに耐えられず、さぼっちゃうわけだ。でもそれじゃ手が動いてないから仕事の能力もあがらないし、指示の多さは現象としては明らかに「ブラック」だから拒否して当然だ、という意識も働く。
なぜそこまで指示が多くなってしまうかといえば、主体性がなくなっていること以外にも原因はある。教育の科学化である。いわゆる役に立つ実践系の学問が重宝された結果看過されているのは、それが学問である限り、仮説や部分的な解析の集積に過ぎず不完全であるということである。そもそもそれを現場に適用するということには未完成な部品を使うような恐ろしさがあるはずであるが、それがあまり意識されないのだ。理論へのフィードバックがあって弁証法的に発展するのだといわれても、そう簡単にいくはずがない。製品ならそれが廃棄されることであとの製品の新しさを演出出来るが、相手が人間の場合は、失敗した場合人間を廃棄するつもりなのか。教育政策に限らずなんとか科学風なエビデンスを持った改革というものは必ずそういう廃棄を隠蔽してなりたつしかない。
こうして現実を自分の目で観察し認識して対策を立てるという回路はいつも寸断され、国家の権力を纏った「科学的」指示がつねにやってくるようになったのである。教育系に限らず、「いかに現場で成果を上げたか」というのが役に立ったエビデンスなので、報告書や論文はそういう体になるのだが、もはやそれは科学とはいえない。むしろ、どこがうまくいかないのかを中心に記述しないといけないんじゃないかと思うが、改革というのはうまくいくものときまっているものなのである。国家の威信が掛かっているからである。教育は国家の存在そのものに根拠を持たざるえない。
無論、そんな威信云々は、究極的に我々が国家主義の国に住んでいるとしても、教育という共同体において「ある程度」無視することが重要であり、それは憲法にもかいてあることだ。そのことを我々が弱者に転落した結果、分かる勇気をなくしてしまっただけだ。いろいろ理由はあるが、いつのまにか上司が上司の意味上の「権力」を身に纏うようになり、それは上司の意識上の出来事でも部下の意識上の出来事でもあったが、――それが教師と生徒の関係にも持ち込まれてしまった。プロレタリア文学の時代以上に、人間関係をみりゃすぐ権力関係に見えるのはさすがにまずいわな、と言わざるえない。教師は単なる「権力」ではないからである。別に全面的に否定すべき感覚ではない。しかし、それはなんちゃって文化左翼がいうように権力関係に批判的・意識的になることを結果せず、奴隷の自意識をこじらせるだけであった。
奴隷の意識は、自分をそれ以上の奴隷として意識することを嫌う。つまり怒られるのをきらうようになる。わたしは間違いを諭したり指摘して前向きに改善を促すのと、厳しく叱るのは扱われている事柄が同じでもまったく別のものだと思う。前者を積み重ねても後者とは同じにはならない。私は場合によっては厳しく叱ることは重要だと思っているが、結局それは、人間の「強さ」の発露であって、権力の発露ではないからである。
すべてを権力関係に還元する意識は、昨今の発達障害の現場への適用にも現れている。例えば、仕事で叱責されてトラウマに、いろいろ調べてみたら病気だった、あるいは発達障害でした、という物語的記述は非常によくみる。しかし、これだとほとんど何が起こったのかわからないのだ。問題は、どのような場面でどのような行動や発言を叱責されたのか、に関する細かい記述が省略されていることである。それは叱責された者の意識の有り様を示しているのかも知れないし、情報の秘匿とかいろいろな理由はあるだろうが、ほんとうはここが分からないと、「何があるか分からないから注意するのはやめとこう」としかマジョリティ?は思わない。すると大概発生するのは無視するといういじめである。相手が権力関係による被害を言うなら、こちらも権力を発動させようというわけである。マルクス主義でもフェミニズムでもそうだったが、こういう細かいことを省略して、世の中のシステムやマジョリティの偏見を攻撃する運動になると、簡単にバックラッシュは起きてしまう。現に起こっている。