★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

大衆化における三類の強敵

2022-07-17 08:38:46 | 思想


濁劫悪世の中には多く諸の恐怖有らん悪鬼其身に入つて我を罵詈毀辱せん、濁世の悪比丘は仏の方便随宜の所説の法を知らず悪口し顰蹙し数数擯出せられん」等云云、記の八に云く「文に三初に一行は通じて邪人を明す即ち俗衆なり、次に一行は道門増上慢の者を明す、三に七行は僣聖増上慢の者を明す、此の三の中に初は忍ぶ可し次の者は前に過ぎたり第三最も甚だし後後の者は転識り難きを以ての故に」等云云

いわゆる「三類の強敵」である。第一のものたちは、仏法に無智な者達で悪口が得意、いざとなったら何か武器を持ちだしてくる。第二は道門増上慢で、心がねじ曲がった自らに真実アリと思っている者達。第三は僭聖増上慢で、聖者のような扱われ方をされているがこいつらが一番の元凶であるところの高僧である。人里離れたところで悟りきり、権力に告げ口をする連中である。

いまでいえば、第一は世論で、第二はネット民、第三は一部の学者といったところか。こういうのは、世の中の構造の現れなので、日蓮の時代も我々の時代も変わらなく存在するのであった。もっとも認識しにくいので厄介なのは第三の輩だというのだが、最近はもしかしたら一番やっかいなのは第一の集団であるきがする。しかも、第一の集団に第二、第三が含まれている。

アニメーション「エヴァンゲリオン」に関しては、テレビ放映当初、同時期のオウム事件との類似性みたいな議論が多くあったと思う。エヴァンゲリオンを動かすネルフという組織はけっこうな大集団だが孤立したカルトだと。しかし、最後の劇場版だと、ネルフはなんか主人公と親父と指導教官の二人ぐらいになってて、それでも壮大なテロをやらかそうとする本当に孤立したテロリストに過ぎず、対して、そのカルトから抜けた元ネルフの若手(ヴィレ)はもう世間から孤立しておらず、田植えとかその支援とかでSDGsみたいな活動をやってる。ここにはある種の宗教2世にたいする楽観があるようだ。つまり、大衆化したカルトの問題を甘く見ていると思うのだ。物語は現実の書きかえに成功したようであるが、そう簡単ではないからいろいろなことが起こる。物事の影響は津波のようではなく、植物の根のように進んでゆくものだ。現在は、世間の方が多数化したオウムとなっている可能性すら考えとくことが必要である。

ラゴン

2022-07-15 23:01:06 | 映画


いまからでも遅くはない。手塚治虫の国葬を、いや我が国に生きる全ての生物で葬式を出すのだ。いっそのこと虫たちだけでもいい。結局、生きとし生けるものを平等に、やおろずの神がー、とか生物多様性が~、とか言っているのは嘘で、初代首相とか、最長なんとかが好きなやつが多いのである。日本の文化も結局どうでもいいやつがおおいのだ。

そういえば、「鎌倉殿の13人」が激しい内ゲバ内戦をえがきながらさいごその最終的な原理をどう語るか、語らないかに注目している。毎週人が暗殺されるドラマをみながら、実際に人がころされるとあれなのがわれわれで、はやくドラマにしたがるというのが、――賴朝がドラマの中で木曽義高を殺しておいてのせりふ、――「天命ゾ」なのである。連合赤軍事件の幕府版が鎌倉幕府だとして、過程の総括ではなく最終決着としての総括をして頂くほかはない。

そういうときに、結局、みずからのなかから原理をでっちあげられないのが、われわれの知的体力のなさである。仏教でも神道でも近代の超克でもいいからやっておかないと次のような柔な戯作的精神の回帰で終わる。

――庭にいた雨蛙とオードリー・ヘップバーンと比べてどちらが細の顔に近いかと沈思黙考してみた結果、ヘップバーンに近いと言わざるを得ない。したがって、わたしはグレゴリー・ペックなのではないだろうか。

こんな具合である。だいたいいわゆる「日本回帰」みたいなのがだめなのは、手前がもともと日本にいた訳であり回帰しようがない、ということに気づいてないからだ。回帰前も回帰後も、自分の頭を呑み込んだようなどこかの亜空間にいるんだとおもうのだ。

大和朝廷の昔から、我々が象徴的権威的人物をいつも暗殺というかたちで排除せざるをえないのも、象徴をいじくることによって全体をいじくろうという、手っ取り早い怠惰な方法、というか作用的な手法をとっているためである。天皇制とは、その実、そういう作用を象徴し、しかもその天皇を暗殺しないことによって隠蔽しているような気がする。

がんだむ

2022-07-14 23:16:50 | 漫画など


今日、三十年ぶりぐらいに『少年ジャンプ』というのを読んだんだが、むかしながらのざらざらの紙にある種かすれた印刷で、あのサイズ。子どもが作品の線に合わせて手が動いてしまう、つまり落書きを誘発する、物質感がある。単行本で小さくキレイになった作品からはそれはかんじない。スマートフォンで読む場合はもっとそうだろう。

新連載の『ルリドラゴン』という作品が面白そうだな。。。

『宗教問題』のオウム特集を読みふけってしまい仕事をさぼった。

はじめに光と言葉あり

2022-07-13 23:34:27 | 思想


日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて返年の二月・雪中にしるして有縁の弟子へをくればをそろしくて・をそろしからず・みん人いかに・をぢぬらむ、此れは釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国・当世をうつし給う明鏡なりかたみともみるべし。

宗教に限らず、人を惹きつけるものには必ず非人間的なものがあって、頸をはねられた日蓮の魂が書いた書だという開目抄を恐れてならぬ、これは日蓮の魂であってそれのみに非ず、明鏡である、と。

NASAの美しい天体写真をみて、我々の生とは関係ない非人間的なものに、我々は夜な夜な空を眺めて侵されて崩壊してゆくんだなと思った。我々が鏡を見るとき、自分以外のものが映っている。それは光に還元された自分の姿であって、非人間的なものである。三種の神器をありがたがった人たちがどういう人たちかはわからないが、そういう感覚は忘れてはいなかったにちがいない。

それにくらべて人間の世界は、言葉によって人に振り回される怖ろしいものである。松田政男などの編んだ『群論 ゆきゆきて神軍』のなかで吉本隆明が、自分は天ぷらをうまく揚げたことはないが、「天ぷらがうまく揚げられるようになったら、プロの料理人になってしまう」、と書いていた。ここが「なってしまうかもしれない」とする人と「なってしまう」と書く人の精神は大きくちがう。その違いが、人を振り回す。吉本はほんとに「なってしまう」と思ってしまう人で、だから学生の暴れん坊たちに人気があったのだ。柄谷行人氏なんかは「という他はない」みたいな文体だったから「という他はない」という感じの人が一時期増えたし、東浩紀氏みたいに「どういうことか」という感じの人も一時期多かった。

安倍晋三氏が人間からなにかの観念になったのは、モリトモのときの「私や妻が関係していたということになれば、まさに私は、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員もやめるということははっきりと申し上げておきたい。」という、もしかしたら、大江健三郎の小説の何か面白い場面で出てきそうな文体を獲得したことにあったと思う。善悪はときに文体に飲み込まれる。

こんな体たらくでは、言葉による合意形成など、人間には無理な話なのだ。信頼感がないとすべて合意形成みたいなことをしなきゃいけなくてそれは無理なので、結句、なにもしなくなるにきまっている。いま宗教2世の問題が囂しいが、宗教は言葉だけの問題ではないのである。多くが非人間的なものと言葉の組み合わせにおいておそろしく繊細な問題をかかえている。むやみに当事者に話を聞いては駄目だと思う。無神経なやつがいるもんだ、、、

男ドン・キホーテは石の如く

2022-07-12 23:40:54 | 思想


竜女が成仏此れ一人にはあらず一切の女人の成仏をあらはす、法華已前の諸の小乗教には女人の成仏をゆるさず、諸の大乗経には成仏・往生をゆるすやうなれども或は改転の成仏にして一念三千の成仏にあらざれば有名無実の成仏往生なり、挙一例諸と申して竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし、儒家の孝養は今生にかぎる未来の父母を扶けざれば外家の聖賢は有名無実なり、外道は過未をしれども父母を扶くる道なし仏道こそ父母の後世を扶くれば聖賢の名はあるべけれ、しかれども法華経已前等の大小乗の経宗は自身の得道猶かなひがたし何に況や父母をや但文のみあつて義なし、今法華経の時こそ女人成仏の時・悲母の成仏も顕われ・達多の悪人成仏の時・慈父の成仏も顕わるれ、此の経は内典の孝経なり、二箇のいさめ了んぬ。

当たり前であるが、男尊女卑の世界であっても、女性に対する悔恨がさまざまあったにきまっているわけで、宗教に於いて女人が天国に行けるかと成仏出来るかみたいな話が、女性に関するトラウマやコンプレックスと完全に無関係だったはずはない。

この前、檜垣立哉氏の『バロックの哲学』に所収されている、オルテガ・イ・ガゼット論を読んでいて、そこで引用されているオルテガの「ドン・キホーテ論」を少し読み返してみたのだが、とにかく前置きが重要で、しかし長い。花★清輝のドン・キホーテ論なんかも、前置きだけみたいな文章である。ドン・キホーチェを語る人たちというのは、なかなか本題に入りたがらないというのがあるんじゃないか。これが、主人公の騎士が思い人のところにたどり着かない事態を示しているようで面白い。

そういえば、上のオルテガの「ドン・キホーテ論」もなかなか書棚から見つからなかった。旅にでもでていたのであろう。

ドン・キホーテの騎士は、バナナ型神話であたかもバナナではなく石を選んで不老不死になった者であるかのようだ。死んで生を生み出す女体ではなく、永遠に放浪し徐々に朽ちようとする石である。

ヤマトタケルが死ぬ場面で、脚が腫れちゃってもう歩けず、白鳥になってしまい、それを細君たちが泣きながら追いかけてゆく。これはなにか丈夫なヤマトタケルが女性的なるものに置き換わってゆく過程を見るようだ。我々の文化では、男は討ち死にして祈念碑や墓に成り永遠を得る。それにうまく成功しない場合は、女性が登場して行方知れずである。義仲は巴を逃がして男の一生を終えた。義経はその点、静御前とともに賴朝に反抗したために微妙な最後であり、死にきれずチンギスハンにならなければならなかった。

現代書館刊行の「for beginners」シリーズの一冊、「右翼」をつい古本で買ってしまったが、これは、文:猪野健治 イラスト:宮谷一彦の組み合わせですごい迫力を持っている。22、23頁のシャーマニズムの画はすごい。蛇の髑髏を被った男の横で蛇よりも迫力ある女性が踊っている。ときどきあるポンチ絵もどきもいいね。国のポンチ絵はこれを見習えよと思う、国のポンチ絵は、カクカクと記号的な男なのである。宮谷一彦の画は、男を女と同じようなバナナのような崩れゆく肉体として描いている。

あんまり読んでないが、オルタナライトに影響力があるといわれるニック・ランドは、『絶滅への渇望』(1992)を少しよんでみると、ショーペンハウアーを評価しているみたいだ。なんか90年代の香りするよね、と思ったのは、わたしも90年代に、これからはショーペンハウアーがもう一回来るとかいうて、ちょっと論文を書いたこともあるんだが、9・11以降辺りからちょっと反省してちょっとちがう道をさぐったつもりなのだ。がニック・ランドはそのまま突き進んだところがある。私はどちらかというと、内田樹の言う「おばさん」化を為すことによって行きのびようとしたのだが、ニック・ランドはそんな誘惑にはのらなかったとみえる。

判断

2022-07-11 23:36:44 | 思想


宝塔品の三箇の勅宣の上に提婆品に二箇の諫暁あり、提婆達多は一闡提なり天王如来と記せらる、涅槃経四十巻の現証は此の品にあり、善星・阿闍世等の無量の五逆・謗法の者の一をあげ頭をあげ万ををさめ枝をしたがふ、一切の五逆・七逆・謗法・闡提・天王如来にあらはれ了んぬ毒薬変じて甘露となる衆味にすぐれたり

五逆(父を殺すこと、母を殺すこと、阿羅漢を殺すこと、僧の和合を破ること、仏身を傷つけること)そして、仏法を謗ること。こんなことをしたとしても提婆達多などは天王如来を約束されているらしいのだ。これは一見、悪人正機みたいな暴力的スピード感?あふれる逆説に思われるけれども、その実、我々を謎に投げ込むことが目的だったに違いない。われわれはさまざまな困難から明晰さや一刀両断の逆説を宗教に求めるけれども、大事なのは、困難の肯定に戻れるかどうかなのだ。何故か、悪人が如来である現実がある、因果応報は世界の摂理ではなく、なぜかそうなった現実がある。そこを否認すると、我々はつい暴力を用いたくなってしまうわけである。

宗教上の不幸は、一つには現実の不幸の表現であり、一つには現実の不幸にたいする抗議である。宗教は、なやめるもののため息であり、心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆のアヘンである


このマルクスのせりふは途中が略されることがおおいので、宗教はアヘンで殲滅すべし、と解されてしまうのであるが、宗教は「現実の不幸にたいする抗議である」わけであるから、それを除去してしまうと、不幸の表現が消える代わりに抗議もなくなってしまう。「精神なき状態の精神」は、精神に変わりないわけだから、それを除去すれば精神そのものをなくしかねない。宗教は、われわれ世界のシステムの表現である、とマルクスは言いたげである。

もとアイドルの生稲氏が東京で当選した。しかしその後のマスコミへの出演は「国会議員の資質も勉強も圧倒的に足りない」と言う理由でNGだったらしい。なんじゃそれは、とわたくしの正義の精神は呟くが、同時に、わたくしは上記の理由に於いて、生稲氏と自分との共通点を発見したのである。もしかしたらおれも知らないうちに自民党員で国会議員になっていたのか。もしかしたらそれ以前におニャン子クラブの一員なのではないか。職員番号、これあやしいな。。。

勉強不足力量不足で表舞台にあがらないのは、もとおにゃんこの人に限らない。われわれの、――やる気がない、自主性がない、権力がない、怒られそう、などなどの言い訳のすべてに似たような内実が潜んでいる場合があるわけである。安倍氏も生稲氏もテレビ局も我々の似姿で、傀儡だ。傀儡は実力つけないとおかしなやつにハンドルを握られる。おかしなやつは人でもあるが、われわれの精神のことでもあり、上のような言い訳=言葉にわれわれは操られているのである。社会は我々の実力と心で出来ており、言葉でできているのではない。我々の社会は死んでいる。

例えば教員というのは、大学にいる人に限らず、勝手に自分で知や伝統継承のための共同性をつくってしまう我々の社会の健康さ(実力)を示す人種であって、そこに人が集まらないというか、自然に集まってこないというのは、単に職場がブラックだからじゃなくて社会が死んでるということだ。

しかしまあ、このような――私は世の中だ、みたいな思考を極端におもいつめると平岡正明の『あらゆる犯罪は革命的である』みたいな発想に行き着く。確かに、平岡のように、もう自分を歴史の必然みたいな世界線で考えているような男にはそう思いきれるのであろう。しかし、これはこれで、個々の生の事象(生活)に対する分析がおおざっぱになって行きかねない。確かにわたしも、この生活から思い切り離脱するほうが、死体としての社会に付き合わずにスムと考えることもある。が、私は、今現在の提婆達多だってまだ死にかけの死体のような状態であって、生に未練があって中有に漂っているかも知れないと思う。やっぱりもうちっと彼はちゃんと正しいことをすべきだった気がするのである。

たぶんこれからも、ちがう世界線に軸足を移してしまった宗教やイデオロギーとの戦いは続く。カルト?であるかないかは我々の旧来の「常識」が決めるところもある。詐欺集団ぽいとか教義がごたまぜであるとか物を扱うやり方が独特だとか。。けれども、本来、その判断は、それこそ社会をどうすべきかという政治的な認識がすごく働かなければならない判断であり、それがふにゃふにゃしているから、めんどうくさそうな話題だとおもってフタをしてきたのが、この二十年の我々なのである。大学でのセクトや宗教団体の鍔迫り合いは場合にもよるがそれなりに意味はあった。そこで我々は学んだことも多かった。それがないと、学校や政府がいつの間にかカルト?みたいになってても単に観念の目を閉じるか、幇間になるかである。

向日葵の

2022-07-10 23:17:13 | 文学


「プッ、反って小さく見えるワ、――私は何んという馬鹿でしょう、同じ毛細管の現象でも、これは凹レンズよ、穴の大きさに比べて、水が少なかったんだワ」
 もう一度その上へ水を滴し込んで、水の膜を真ん中で盛り上るようにさせた上、一生懸命十銭玉の穴から、指環の文字を覗いて居た加奈子は、思わず喜びの声をあげました。(皆さんためしてごらんなさい)
「麗子さん、今度はハッキリ読めそうよ、随分素晴らしい凸レンズね――聞いて頂戴、最初は向の字――その次は日の字――、それから葵という字――、向日葵と書いて、ひまわりと読むんでしたね、その次は、に、眼、を、与えよ――続けて読むと『向日葵に眼を与えよ』となるワ。何んの意味でしょう、指環の彫刻も向日葵だけれどなんか外に意味がありそうネ」
「サア――」
 麗子には、何んの考もありません。


――野村胡堂「向日葵の眼」

「渧をなめて大海のしををし」るか

2022-07-09 19:30:44 | 思想


一渧をなめて大海のしををしり一華を見て春を推せよ、万里をわたて宋に入らずとも三箇年を経て霊山にいたらずとも竜樹のごとく竜宮に入らずとも無著菩薩のごとく弥勒菩薩にあはずとも二所三会に値わずとも一代の勝劣はこれをしれるなるべし、蛇は七日が内の洪水をしる竜の眷属なるゆへ烏は年中の吉凶をしれり過去に陰陽師なりしゆへ鳥はとぶ徳人にすぐれたり。

「一渧をなめて大海のしををし」れるかどうかは分からない。そして一般的に、知らないことこそが大海のことを知ることになる。「大海」というのは観念であるからだ。オウムのときはなんとなく自分の考えていることが本質的だったという気にさえなり変なやる気さえ出てきたものだ。が、今回の事件は、脱力というかだめだこりゃ感がすごくて歳を感じる。正直なところ、オウムのときの方がびっくりしたんだ。周りに宗教に関係している者がいなかったわけではなく、そこから推測してああなるとは思っていなかった。しかしわたくしは宗教にも他人についても何も知っていなかった。しかし、今回は、昔よりは知恵がついているだけに、おれたちの社会が予想よりもだらけている場合なにか起こると思っていたところがある。だから余計脱力感があるのだ。大海の大きさをただ恐れるばかりだ。

おそらく宗教の力は、その大きさを信に変換できるものである。だから、人生経験を積んだ者もそこに惹かれていく可能性があるわけである。


心の世界

2022-07-08 23:46:48 | 思想


但し我等が慈父・雙林最後の御遺言に云く「法に依つて人に依らざれ」等云云、不依人等とは初依・二依・三依・第四依・普賢・文殊等の等覚の菩薩が法門を説き給うとも経を手ににぎらざらんをば用ゆべからず、「了義経に依つて不了義経に依らざれ」と定めて経の中にも了義・不了義経を糾明して信受すべきこそ候いぬれ、竜樹菩薩の十住毘婆沙論に云く「修多羅黒論に依らずして修多羅白論に依れ」等云云、天台大師云く「修多羅と合う者は録して之を用いよ文無く義無きは信受すべからず」等云云、伝教大師云く「仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ」等云云、円珍智証大師云く「文に依つて伝うべし」等云云

人の言うところを信じてはならぬ、仏法の言葉だけを信じるべしというのは、窮屈にみえるが、言葉にある心の範疇から遁れてしまうことへの危惧であったろうと思う。我々の心は非常に我が儘にあらゆる方向に伸びるようにできている。人の生き死が生起した場合は特にそうだ。今日は、暗殺事件まで起こってしまったわけで、これに対して民主主義や法治や自由の概念は、そこで起こった感情に追いつくことは出来ない。たぶん、殺された元首相が直観していたのはそこで、法外なもののせめぎ合いにだけ集中することが政治だと思い切ってしまったのかもしれない。そこで我々が失ったものは多いが、必然でもある。我々の日常的に経験してきた悲しみや鬱屈にどどく言葉を失った我々の世界は、もう生々しいことにしか興味がなくなってしまっている。

人は簡単に共感能力の有無を問題にする。しかし、それの過剰さがある人々が時々あること、われわれが群体としてそれを拘束しながらも持っていることを知っている。その拘束がときどき外れて、都市生活の中で協同性や宗教的な規範から離れがちになった我々は、他人が、あるいは自分がどのように心を動かされるのか分からなくなってしまうことがある。たぶん近代文学が勃興してきた理由も、それと表裏一体なのである。それは分からなくなることそのものの表現でもあり、分からないことへの抵抗でもある。だから、文学は、分からない範囲を思い切り広げて、テロリストや犯罪にまで手を伸ばしてきたのだ。

近代文学のそのような性格が、うまく機能しなくなるのも、その「分からない」度合いが閾値を超えたときである。だから、私の感覚だと、――戦争と連合赤軍事件やオウム事件のようなものが、長期的にみれば文学を育てると同時にたたきつぶしもするのである。それは「分からない」という地点に引き籠もりもするからだ。

そもそもイデオロギーや政治的な因子が原因であれば話はわかりやすいんだが、いつもそんな簡単にはいかないのは自明である。しかし、イデオロギーよりも込められた思い、とか、論破、とか、刺さる、とか言っている言論の方に注目すべきだからといってそこをつっこんでゆくと、それはなかなか時間がかかる。村上春樹なんかはそういうことを長い時間かけてやっているのかもしれない。しかし、死を前にした中上なんかは、「もっとしっかりしてくれ」みたいな説教モードになっていた気もするのだ。確かに、だらけきったわれわれの社会がだめだと言い切るやり方もあるであろう。目的も感情もあやふやになった我々の心の世界は、肉体と繋がっている。肉体を制御出来ない心に期待は出来ないからである。

今日は授業で、ちょうど内向の世代や大江、中上をはじめとするテロ予備軍小説?や秋山駿の「内部の人間」について話す予定だったのである。授業のⅠ時間前に事件のニュースを聞いた。

混ぜご飯としての人間

2022-07-03 23:11:50 | 思想


此の過去常顕るる時・諸仏皆釈尊の分身なり爾前・迹門の時は諸仏・釈尊に肩を並べて各修・各行の仏なり、かるがゆへに諸仏を本尊とする者・釈尊等を下す、今華厳の台上・方等・般若・大日経等の諸仏は皆釈尊の眷属なり、仏三十成道の御時は大梵天王・第六天等の知行の娑婆世界を奪い取り給いき、今爾前・迹門にして十方を浄土と・がうして此の土を穢土ととかれしを打ちかへして此の土は本土なり十方の浄土は垂迹の穢土となる

確かに我々もある程度歳を重ねてくると、自分が果たして個人として生きてきたかどうか怪しくはなるのだ。退職後、突然、郷土の歴史探索に目覚める方も多いが、暇だからじゃないかとか揶揄する若人に呪いあれ。先輩方は、自分が土から生えてきた植物のように、決して種が起点ではないなにかであることを直観しはじめるのである。歴史趣味はその現れに過ぎない。

人文系の学問のつねとして、対象にしているのが人間であるからして、イチローすげえとか大谷すげえとかとあまりかわらない精神状態を恒常的に人に押しつける可能性がある。人文系の学徒にとって学部や大学院は人格教育の場でもあるべきだ。長い時間かけて「お前は漱石じゃねえよ」とか「ハイデガーじゃねえよ」と言われるべきだからなのである。これがちゃんとできてないのに、表象批判とかファシズム批判やっても憧れの仮象とそいつの醜悪さのコントラストがひどくて、お前に言われたくねえわ、みたいなことを言われかねない。理系はまたちがった思い上がりに対する対策が必要なんだろうが、全然しらんからわからない。「長い時間」が重要だ。それは単なる英雄たちのと同一化を防ぐ自己否定ではなく、自己を英雄たちとの混ぜご飯にすることだからである。俺の場合は爪の垢とか尻の痣ぐらいは漱石やハイデガーになっているとおもわれ、まあ自分に帰りゃいいものではないわけである。

このとき、すでにわれわれはもう人間ではなく、混ぜご飯であり、もう少しで土に帰ることができる。

人文系にのめり込む人の多くは通俗的に言えば「憑依型」で、ほんとになかには萬葉や漱石や鷗外を諳んじている人もいれば、そうでない人もいる。そのなかに妙に、悟空に憑依されて学校の廊下でひたすらかめはめ派撃ってるようなタイプも混じっている。だから、一言で混ぜご飯だといっても一概にはイメージ出来るものじゃない。特に、ナルシシズムを批判しがちな教師たちは気を付けなくてはならない。萬葉を諳んじている人間など、ナルシストではないばかりか人間ではないのである。むかし、授業で、「ドストエフスキーを読んでない者はまだ人間でないと言ってよいと思う」と放言したわたくしであるが、誠に申し訳なかった。私はドストエフスキーの作品がもつあまりに人間的なものに欺されていたのである。

太宰の文学が西洋につながるものだなぞと早合点してはならない。あれ程、日本文学の湿気の多い沼の中に深く根を下していた、文学は少ないことを、私ははっきりと知っている。

――檀一雄「太宰治と読書」


太宰の文学は、実際沼の中から生えている蓮の花みたいなところがあった。彼自身も最後は水に飛び込んでしまったし。