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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

罪責難遁

2021-03-16 23:42:16 | 文学


「今両方の表奏を披て倩案一致之道理、義貞が差申処之尊氏が八逆、一々に其罪不軽。就中兵部卿親王を奉禁殺由初て達上聞。此一事申処実ならば尊氏・直義等罪責難遁。但以片言獄訟事、卒爾に出て制すとも不可止。暫待東説実否尊氏が罪科を可被定歟。」と被申ければ、諸卿皆此儀に被同、其日の議定は終にけり。懸る処に大塔宮の御介妁に付進せ給し南の御方と申女房、鎌倉より帰り上て、事の様有の侭に奏し申させ給ければ、「さては尊氏・直義が反逆無子細けり。」とて、叡慮更に不穏。是をこそ不思議の事と思食す処に、又四国・西国より、足利殿の成るゝ軍勢催促の御教書とて数十通進覧す。

「但以片言獄訟事、卒爾に出て制すとも不可止」とは、最近、国会でも聞いた気がするが、――そういうことを参考にすると、尊氏・新田義貞双方の訴状を受け取った人たちは、本当はなにがどうなっているのかは、ほんとは知っていたのかもしれない。決心というのは、何をどうやって行動するか決まっていないとなされないのが普通である。決心してから計画を立てるのではない。政治の世界では、たぶん特にそうだ。しかし、本当にこんなものがいつも普通だと言えるのか。

がまだその上には上がある。君国を売る奸賊、道徳を売る奸賊、宗教を売る奸賊、これらはあらゆる奸賊の中でも、最も許し難き奸賊ではないか。しかるにこれらの大奸賊といふものに、なつてくれば、なかなか公然と張つてある法網に触れて、監獄といふ、小さな箱の中へ這入るやうな、頓間な事はしない。俯仰天地に恥ぢずといつたやうな顔をして、否むしろ社会の好運児、勲爵士として好遇され、畏敬され、この美なる神州の山川を汚し、この広大なる地球を狭しと、横行濶歩してゐるではないか。されば天地間、いづれに行くとしても罪人の居ない処はない。いはばこの娑婆は、未決囚をもつて充満されてゐる、一個の大いなる監獄といつてよいのである。ただその中で思慮の浅い、智恵の足りない、行為の拙なものが、人為の監獄に投ぜらるるまでなのである。しからば監獄を限りて、罪人の巣窟と思ふのは、大いなる浅見ではないか。故に予はむしろこの小さき、否愚かしき、真個憫むべき人間を捉へて、罪人といふのに忍びぬのである。』

――清水紫琴「誰が罪」


この作者は、古在由重のお母さんである。哲学者を生んだ母は、これも立派な哲学者だったと思うのは、堂々このようなせりふを冒頭に持ってくることであった。政治はこの前提から始まるべし、である。近代はそうあるべきであった。いまはそうではないということである。

恩賞の彼方に

2021-03-15 23:51:46 | 文学


「去んぬる元弘の乱の始め、高氏御方に参ぜしに依つて、天下の士卒皆官軍に属して、勝つ事を一時に決し候ひき。しかれば今一統の御代、偏へに高氏が武功と可云。そもそも征夷将軍の任は、代々源平の輩功に依つて、その位に居する例不可勝計。この一事殊に為朝為家、望み深きところなり。次には乱を鎮め治を致す以謀、士卒有功時節に、賞を行ふにしくはなし。もし註進を経て、軍勢の忠否を奏聞せば、挙達道遠くして、忠戦の輩勇みを不可成。然れば暫く東八箇国の官領を被許、直に軍勢の恩賞を執り行ふ様に、勅裁を被成下、夜を日に継いで罷り下つて、朝敵を退治仕るべきにて候ふ。もしこの両条勅許を蒙らずんば、関東征罰の事、可被仰付他人候ふ」とぞ被申ける。

高氏は、天皇の名前の「尊治」から一文字拝借して「尊氏」となったのは有名な話であるが、――こういう例を見ると、ようするに、我が国では下々というのはかなり本質的に傲慢であり、天皇を何らかの観念とか理念みたいなものとして尊崇している訳ではない気がするのであった。尊氏は名前まで強奪したが、普通は恩賞である。

いまもそうであるが、とにかく恩賞を要求する人は多い。いまはインセンティブとかいわれているが、――なかには良心が残っている者もいるとはいえ、自らの労働を最小限にして人に押しつけることを考えている人に限って恩賞を要求する。労働者の権利は要求すべきだが、その残酷さを看過するわけにはゆかぬ。我々が恩賞ほしさに、人なんか簡単に殺すということを「太平記」を始めとして様々な作品が示している。

要するに、我が国の天皇制とは、本質的に、働いてやるから何かクレという精神をさもしく見せないためのシステムである。それから遁れるためには、権力そのものの中に、無風状態にいるほかはない気もしてくる。平安朝の文学を瞥見すると、それはそれで非常にしんどいもののようだが…。

『太平記』の記者は、
「日来武に誇り、本所を無する権門高家の武士共いつしか諸庭奉公人と成、或は軽軒香車の後に走り、或は青侍格勤の前に跪く。世の盛衰、時の転変、歎ずるに叶はぬ習とは知りながら、今の如くにして公家一統の天下ならば、諸国の地頭御家人は皆雑人の如くにてあるべし」
と、その当時武士の実状を述べて居る。
 其の上、多くの武士には恩賞上の不満があった。彼等の忠勤は元来、恩賞目当てである。亦朝廷でも、それを予約して味方に引き入れたのが多いのである。云わば約束手形が沢山出されていたのである。
 後醍醐天皇が伯耆船上山に御還幸の時、名和長重は「古より今に至るまで、人々の望む所は名と利の二也」と放言して、官軍に加ったことが『太平記』に見える。其の真疑はとにかく、先ず普通の地方武士など大体こんな調子であろう。伝うる所によれば、諸国から恩賞を請うて入洛し、万里小路坊門の恩賞局に殺到する武士の数は、引きも切らなかったと言う。だから充分なる恩賞に均霑し得ない場合、彼等の間に、不平不満の声の起きるのは当然である。

――菊池寛「四条畷の戦」


「均霑」なんて言葉はいまはあまり使わんね……。とはいえ、菊池寛はこういう平たい真実をわかりきっていながら、――というより、わかりすぎているために、恩賞なんかどうでもいい人間のことが分からなくなっていったのではなかろうか。

生きる目当て

2021-03-14 23:34:38 | 文学


「汝は我を失んとの使にてぞ有らん。心得たり。」と被仰て、淵辺が太刀を奪はんと、走り懸らせ給けるを、淵辺持たる太刀を取直し、御膝の辺をしたゝかに奉打。宮は半年許篭の中に居屈らせ給たりければ、御足も快立ざりけるにや、御心は八十梟に思召けれ共、覆に被 打倒、起挙らんとし給ひける処を、淵辺御胸の上に乗懸り、腰の刀を抜て御頚を掻んとしければ、宮御頚を縮て、刀のさきをしかと呀させ給ふ。淵辺したゝかな る者なりければ、刀を奪はれ進らせじと、引合ひける間、刀の鋒一寸余り折て失にけり。淵辺其刀を投捨、脇差の刀を抜て、先御心もとの辺を二刀刺す。被刺て 宮少し弱らせ給ふ体に見へける処を、御髪を掴で引挙げ、則御頚を掻落す。篭の前に走出て、明き所にて御頚を奉見、噬切らせ給ひたりつる刀の鋒、未だ御口の 中に留て、御眼猶生たる人の如し。淵辺是を見て、「さる事あり。加様の頚をば、主には見せぬ事ぞ。」とて、側なる薮の中へ投捨てぞ帰りける。去程に御かいしやくの為、御前に候はれける南の御方、此有様を見奉て、余の恐しさと悲しさに、御身もすくみ、手足もたゝで坐しけるが、暫肝を静めて、人心付ければ、薮に捨たる御頚を取挙たるに、御膚へも猶不冷、御目も塞せ給はず、只元の気色に見へさせ給へば、こは若夢にてや有らん、夢ならばさむるうつゝのあれかしと泣 悲み給ひけり。

「さる事あり。」というのは、例の眉間尺のことである。父の敵を討つために眉間尺と言う男は、三寸の刃を咥えて自決、首だけになった彼は仇の楚王のもとに行き、王が首を見た瞬間、刃が飛んで王の首を切断したのだった。この挿話を思い出した暗殺者は、宮の首を足利直義にとどけなかったのだが、これはこの話を語っている作者の弱さを物語っている。面白そうだから、首を持っていけばよかったのだ。そこで首が飛び上がろうと、そうでなくとも、人の怨みの世界について読者は考えるはずである。三国志演義なんかでも、関羽の首が曹操の元に届けられて、「お元気ですか」と言ったとかなんとか語られているけれども、これは面白くしようとしたというより、――関羽というものが表現しているのは、怖ろしく傲慢で超人的に強いがつい恩義がある人には愛想よくしてしまう人間の不思議さなのである。こんな人たちを統治するためにはどうしよう……、知恵を絞るほかはない。上の暗殺者は、足利と後醍醐天皇の界隈が面倒なことになっていることを知っていた。またもや、嘆願書をとどけなかった公家と同じく、面倒を避けたのである。面倒というのはいつも存在しているが、そこに直面すると頭を使う必要がある。それが面倒なのだ。

そして、うち捨てられた宮の首に直面するのは、お世話をしていた南の御方である。日本のフェミニズムの困難はいろいろあるだろうが、ひとつには、トラウマを女性に任せるという文化の頑強さがあるような気もするのだ。平家物語でも最後は女の悲しみが中心に押し出されていた。

 概して文芸家の首には深みがある。ドストイエフスキイ、ストリンドベリイ、ロマン ロラン、皆そうらしい。ポオ、ヴェルレエヌ等は何という不思議な首だろう。彼等の詩そのものと思う。政治家では、リンカンの首がすばらしい。生きている当人に会ってみたかったといつも思う。近くではレエニンの首が無比である。レエニンの性格に関する悪口を沢山きくけれども、私は其を信じない。彼の首が彼の決して不徳な人でなかった事を証拠立てている。野心ばかりの人に無い深さと美とがある。ナポレオンよりも好い。ナポレオンにはもっと野卑な処がある。近世の支那にはまだ人物が出ないようだ。

――高村光太郎「人の首」


もう、ここまでくると訳が分からないが……。目標を狭く定めていることは確かである。鷗外は美女の項を見て恋をするのだが、光太郎は首そのものを愛してしまうのだ。おそらくだが、光太郎は暴力性を一生懸命押さえ込もうとしていたに違いない。

例えば、「前を向いて生きる」とか「自分らしく生きてゆく」とかいうのを目標にしてはいけないのは、我々の日常はほぼ失敗のくりかえしであり、そのつどその目標に照らして自分が道を誤っていることを実感することになるからである。反省すれば後ろ向きで、自分を半ば否定して自分らしくなくなるわけだからもう大変だ。目標を言っているだけのいいかげんな人ならともかく、真面目な人は、こういう目標を立ててはいけない。最近は、プロセスを分割してそのつど褒めろとか言うくせに、目標が、上のような漠然としたものが推奨されているために、いちいち矛盾しているように感じられる。だからといって、目標を歯磨きできたとか、この前より5点あがったとかで褒められても、本気で褒めてられてないことは馬鹿でもわかる。目標は具体的に、鎌倉幕府を倒すとか、あのセクトを殲滅とかにすべきだ。「太平記」の人々のように。しかし、そうすると元気がですぎるやつに殺される可能性がでてくる。

高村光太郎は天皇も仏教も信じない近代人なので、そこんとこよく分かっていた。

嘆願書と文芸の位相

2021-03-13 23:01:50 | 文学


夫承久以来、武家把権朝廷棄政年尚矣。臣苟不忍看之、一解慈悲忍辱法衣、忽被怨敵降伏之堅甲。内恐破戒之罪、外受無慙之譏。雖然為君依忘身、為敵不顧死。当斯時忠臣孝子雖多朝、或不励志、或徒待運。臣独無尺鉄之資、揺義兵隠嶮隘之中窺敵軍。肆逆徒専以我為根元之間、四海下法、万戸以贖。誠是命雖在天奈何身無措処。昼終日臥深山幽谷、石岩敷苔。夜通宵出荒村遠里跣足蹈霜。撫龍鬚消魂、践虎尾冷胸幾千万矣。遂運策於帷幄之中、亡敵於斧鉞之下。竜駕方還都、鳳暦永則天、恐非微臣之忠功、其為誰乎。而今戦功未立、罪責忽来。風聞其科条、一事非吾所犯、虚説所起惟悲不被尋究。仰而将訴天、日月不照不孝者、俯而将哭地、山川無載無礼臣。父子義絶、乾坤共棄。何愁如之乎。自今以後勲業為孰策。行蔵於世軽、綸宣儻被優死刑、永削竹園之名、速為桑門之客。

護良親王(大塔宮)は、後醍醐天皇の息子でお坊さんだったが十津川で俗に帰り鎌倉倒幕の中心人物の一人となった。足利高氏と対立して陰謀によって殺された。このとき、天皇に上のような嘆願書を書いたが、取り次ぎ役の公家が面倒を恐れて天皇に渡さなかった。「昼終日臥深山幽谷、石岩敷苔。夜通宵出荒村遠里跣足蹈霜」というせりふに心打たれる人は多かったはずで、天皇の第一皇子かも知れなかったこのひとはいまも一部で尊敬されている。

とはいえ、わたくしは歌をいっぱいのこした足利高氏なんかにも勝手に同情してしまう。「仰而将訴天、日月不照不孝者、俯而将哭地、山川無載無礼臣」とか言われてもだな、天か地かみたいな発想の人間には、文芸の位相が抜け落ちているとしか思えない。

言葉は、自分と体験を切り離す手段であり、話したり書いたりすることで気が楽になるのも、自分が体験を降ろすからだが、――一方で、それを読んだり聴いたりすることによって自分のものでもない体験を背負うこともある。体験の共有が必ずしもよいこととは限らないのはそれこそ常識である。震災で親を亡くした子供のたちの番組をNHKでやっていたが、秘めた思いをはき出させることばかりに集中する昨今の傾向は、そういう常識を閑却して行われている。巨大なトラウマの共有は、人と人の境界を無化してしまう、しかし、家族の中でも経験は個人にしかありえない。どうも、最近、親や子供の苦悩を勝手にお互いに共有したつもりになっているために、お互いに気を遣いあって嘘をつき続けるみたいな関係がありそうである。震災は、戦争違って、人のせいにできない側面がどうしても大きいために、もっと細かいことでも単純に人のせいにできない気がしてきてしまう。絆みたいな粗雑な束縛思想が我々を縛っていることもある。

簡単ではないが、他人は他人、自分は自分というところで乗り越えるしかないのではないだろうか。他人に貧しい言語で伝え続けるのは逆効果だ。

もしかしたら、大塔宮が不利だったのは、父の後醍醐天皇の不幸を勝手に体現した気になっていたからではないか。これに対して、単に後醍醐天皇に親近感があった高氏の方が気が楽だ。こういう距離感でしか、文芸の位相は発生しない。

我々は猫や犬からも何か言われている、で気分よくなってくる。実に不幸の代わりに啼き声で復活したりする生物が我々である。自我の輪郭なんかは幻想で、身体は受容機械である。

他人の声は不幸も我々の中に導くが、切り離すことも出来る。文芸作品が大事なのは体験を人から切り離すからである。ごん狐にシンクロしたら痛くて即失神だし、つまらない心理を兵十に読み込んではいけない。これは、自分の体験に対してもそうであって、言語による過剰な読み込みとシンクロは、単なる悪夢をダリの絵画に置き換えるようなものだ。ダリの絵画は、ダリの絵画に過ぎないからよいのである。

わたしは「大きな物語」という言葉の意味がよく分からないし、そんな共通感覚的なものが人間を支えてきたとはあまり思わない。が、「二十四の瞳」とか「無法松の一生」とかの働きは分かる気がするのである。それらは、感情移入という、主客一体みたいな現象で、体験とか心情を個人から切り離すのである。

だから、我々の生存のためにも、社会のためにも、文芸の出来というものは死活問題なのである。

天道は盈てるを欠く

2021-03-12 23:48:36 | 文学


愚かなるかな関東の勇士、久しく天下を保ち、威を遍く海内に覆ひしかども、国を治むる心なかりしかば、堅甲利兵、徒らに梃楚の為に被摧て、滅亡を瞬目の中に得たる事、驕れる者は失し倹なる者は存す。古より今に至るまでこれあり。この裏に向かつて頭を廻らす人、天道は盈てるを欠く事を不知して、なほ人の欲心の厭ふことなきに溺る。豈不迷や。

太平記の貧しさというのは、こういうところにあると思う。天道と人の欲心についての因果をはなから追究する気がないのだ。天道とかいって――空を見上げるとわれわれは脳みそが萎縮してしまうのであろうか。今日は、ネット上で、T大の広報誌が発狂しているという評判で騒がれていた。私も見てみたが、確かに天道の、いや天下のT大も真っ逆さまに欠けているようである。

しかし、T大が発狂しているという人もいるが私は反対だ。あれは大まじめなのである。いつもそうである。発狂しているのではなく、頭がおかしい、いや最適化への努力が常軌を逸しているのである。宮台真司のいう「優等生病」であるが、彼自身、「傾向と対策」で事態を打開するところがあり、卒業生だけによく分かっているのだ。だからこそ穏便な表現になっている。

この病は、別に優等生だけの病ではない。地方国公立の広報誌が70点しかとれないところを100点とってるだけなのである。優等生病のキチガイとまともな庶民が別にいるのではなく、グラデーションになっているだけだ。70点の問題も厳然として存在する、とはわたしはおもわない。その証拠に、その光を放ってきたらしい総長は、入学式で新入生に「毎日、新聞を読みますか」とかいわなくてはならんかったらしいではないか。

書斎には、いつでも季節の花が、活き活きと咲いている。けさは水仙を床の間の壺に投げ入れた。ああ、日本は、佳い国だ。パンが無くなっても、酒が足りなくなっても、花だけは、花だけは、どこの花屋さんの店頭を見ても、いっぱい、いっぱい、紅、黄、白、紫の色を競い咲き驕っているではないか。この美事さを、日本よ、世界に誇れ!
 私はこのごろ、破れたドテラなんか着ていない。朝起きた時から、よごれの無い、縞目のあざやかな着物を着て、きっちり角帯をしめている。ちょっと近所の友人の家を訪れる時にも、かならず第一の正装をするのだ。ふところには、洗ったばかりのハンケチが、きちんと四つに畳まれてはいっている。
 私は、このごろ、どうしてだか、紋服を着て歩きたくて仕様がない。
 けさ、花を買って帰る途中、三鷹駅前の広場に、古風な馬車が客を待っているのを見た。明治、鹿鳴館のにおいがあった。私は、あまりの懐しさに、馭者に尋ねた。
「この馬車は、どこへ行くのですか。」
「さあ、どこへでも。」老いた馭者は、あいそよく答えた。「タキシイだよ。」
「銀座へ行ってくれますか。」
「銀座は遠いよ。」笑い出した。「電車で行けよ。」
 私は此の馬車に乗って銀座八丁を練りあるいてみたかったのだ。鶴の丸(私の家の紋は、鶴の丸だ)の紋服を着て、仙台平の袴をはいて、白足袋、そんな姿でこの馬車にゆったり乗って銀座八丁を練りあるきたい。ああ、このごろ私は毎日、新郎の心で生きている。

┌昭和十六年十二月八日之を記せり。   ┐
└この朝、英米と戦端ひらくの報を聞けり。┘


――太宰治「新郎」


所詮最適化大学を出た作者の面目躍如たる文章である。しかしさすが現代のTのように神の光を称したりしない、どうせ驕り高ぶるなら、神の光ではなく、花のように驕るべきなのである。今日も、ニュースで学校の先生が泣きながら、太宰のように「紋服」を着て卒業証書を子供にわたしていた。泣いている場合なのか、この世の中で。

北条滅亡す

2021-03-11 23:05:29 | 文学


総じて其門葉たる人二百八十三人、我先にと腹切て、屋形に火を懸たれば、猛炎昌に燃上り、黒煙天を掠たり。庭上・門前に並居たりける兵共是を見て、或は自腹掻切て炎の中へ飛入もあり、或は父子兄弟差違へ重り臥もあり。血は流て大地に溢れ、漫々として洪河の如くなれば、尸は行路に横て累々たる郊原の如し。死骸は焼て見へね共、後に名字を尋ぬれば、此一所にて死する者、総て八百七十余人也。此外門葉・恩顧の者、僧俗・男女を不云、聞伝々々泉下に恩を報る人、世上に促悲を者、遠国の事はいざ不知、鎌倉中を考るに、総て六千余人也。嗚呼此日何なる日ぞや。元弘三年五月二十二日と申に、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐一朝に開る事を得たり。

太平記のクライマックスのひとつである、北条一門の集団自決の場面である。こんな場面をよむと、日本はこれまでの怨霊の量でよく集団発狂しないよなと思う。我々は、死者を成仏させる、――つまり生き残った者の自意識をなんとか収めることにかけては天才的に持続的である。

今日は震災十年目なのでいろいろと追悼の行事みたいなものが行われていたようだ。

生き残った者達もいろいろな者がおるにも関わらず、誰も彼も追悼すりゃいいのかもしれないが、恨みをのんで死んでいったものたちはどうすればよいのであろう。太平記や平家物語では、必ず因果応報があり、生き残った者はただでは済まないのだ。現代では、その応報のシステムが働いていない。これはあまりよくないのではなかろうか。人間の心はそんな良心的に怠惰に出来ているであろうか?

「畜生たちをだ。あわれ、ほんとの畜生たちをつい忘れておった。この有様では、鳥合ヶ原の犬小屋も火の雨をまぬがれえまい。かしこの犬小屋には、高時を慰めてくれた高時の愛犬何百匹が、檻をも出られず、餌のくれてもなく、哭き悲しんでいることだろう。犬小屋の錠を破って、犬どもをみな放してやれ。新右衛門、すぐ行って、放してやれ」
 それを言い終ると、高時は黄金づくりの小刀を解いて、楯の死の座に、あぐらをくんだ。
[…]
「ごゆるりと遊ばしませ。敵を山門内に見るには、まだ間がございましょう。……オオ死出の道、お淋しそうな。むつらの御方、お妻のお局、常葉の君も、みな私に倣って、太守のおそばにいてさしあげたがよい」
 花の輪が、高時をかこんだ。彼女らはそれぞれ泣き乱してはいたが、この期となると、一人も泣いていなかった。春渓尼の唇から洩れる名号の称えに和しながらみな掌を合わせた。
 するとその中のまだ十六、七にすぎぬ百合殿の小女房が「皆さま、おさきに!」と、まっ先に刃でのどを突いて俯っ伏した。その鮮紅に急かれて、高時もがくと頸を落し、そして脇腹の短刀を引き廻しながら、
「尼前……。これでいいか。高時、こういたしましたと、母御前へ、おつたえしてくれよ。よう、おわびしてくれよ」
 と、かすかな息で言った。
 たちどころに、春渓尼のまわりは、すべて紅になった。高時に殉じて次々に自害して行った局たちは血の池に咲いた睡蓮みたいに、血のなかに浮いた。


――「私本太平記」


最後の「睡蓮みたいに」というところがちょっと間が抜けたが、吉川英治は、こういう怖ろしい場面になると根がサイコなのか頑張ってしまう。わたくしは、こういう気分が全く分からないが、推測は出来る。十分あり得る話なのである。吉川英治は「死なずともよい工匠たちの死体も中には見られたとか。」と、太平記の記述にはない部分を伝聞として語っている。伝聞であるから、この集団自殺をみていた周りの人間たちの意識に吉川英治の推測は延びている。彼らと集団自殺を遂げた人間たちの意識の幅のなかから、集団自殺に進む虚実曖昧なラインを炙り出そうとしているわけである。吉川英治が考えたのは、女たちと血の池の睡蓮みたいな美の高みと、犬畜生をかわいがる優しさのなかにそれをみるみたいなことかもしれない。

吉川英治が考えるよりも、事態は簡単かも知れない。悪意をもった嬲り殺され方よりも自分で死を選ぶというというのはあり得ることだ。

職域アスペ

2021-03-10 23:02:31 | 文学


昭和19年にでた『疎開学童の教育指針』という本を読み出したらとまらなくなったが、――「行学一体」とか説明してあって仏じみているとは言え、実際は、いまの「実践的」と一緒で形式論理的な妄想であり、ある意味でレベルの低さで絶対楽しかったよなこれ、イナゴで食糧増産につとめるとか。だいたいイナゴだって無限にいるわけじゃねえんだよ、都会から来たクソ餓鬼に譲れるかよ(個人の妄想です)。一年生にグライダー大会で飛行機増産の必要性を知らせるとか、必要性以前にちゃんとグライダー作れるのかよ、という。こんな本が現場に放り込まれた日にゃ、教員は次の日の準備で悲惨なことになりそうだ。関係ないけど、風邪を引かないようにということで、「ウガヒ、マスク着用」の強化がくどいな……。でもそれ以前に食いもんがないという。疎開学童は、銃後の一種の職業であり、遊ぶ暇が想定されていないのは明らかである。

夕方、西部邁氏の『生と死、その非凡なる平凡』をちょっと読んだが、すごく劇画を感じたな。すごく孤独な人間に夕陽がてっている感じである。西部邁の弱点はおそらく、組織になじめずテロリストを夢みていたことであろう。なぜ、こういう人が有能な人に多いのであろうか。日本の問題は結構こういうところにあると言わざるを得ぬ。

最近は、個人主義の抑圧を組織に見るみたいな幼稚な発想が広がったこともあって、自分の長所だけを活かして働く、如き発想が当為として存在する。一見、みんな違ってみんないいみたいな、リベラルみたいな考え方に見えるが、戦時下の職域奉公ってまさにそういう発想だからね。今年夏に書いた論文でも書いたが、上のようなくだらない疎開計画がたたるような世界における職域奉公論というのは、案外、いまのリベラルが妄想する個々の生き方が活かされて社会にも役に立つ、というやり方なのである。――で、だからこそ、その職域という観念からはずれる鵺のような人々が抑圧される事態となるのである。いろいろな職業のひとがひとつの職場に集まって協働とか簡単にいうけど、それぞれの職場特有の癖を組織の中で行使するようになる。その際、管理職が組織のことを考えずに処世ばかり気にしている場合、部下のそれぞれの癖を恣意的に許したり許さなかったりするので、組織の中の倫理が滅茶苦茶になる。

コミュ力対知識みたいな、幼稚園でも考えつきそうな構図にして問題がずれてしまったが、実際課題だったのは、個人における処世のための視野の縮減――つまり職域の誕生だったのである。わたしは人間はある環境に置かれると意図的にASD的に生長するようなきがするのだ。これは専門家からは、いやもっと発達障害というのはふつうにいるんだよ、と言われるかもしれないが、純粋に意識の世界が環境と関わらないというのは信じがたい。

心より心を得んと心得て心に迷う心なるかな(一遍上人)

こういう感じが、いま知識人からはほとんどなくなりつつある。一遍は、職域アスペからは遠く離れようとしていたので、「心こそ詮なれ」といった専門家を許さなかったのであろうと思うのである。

それぞれのモーゼ

2021-03-09 23:55:24 | 文学


 げにも此の陣の寄せ手、かなわで引きぬらんもことわりなりと見給いければ、義貞馬より下り給いて、冑をぬいで海上をはるばると伏し拝み、竜神に向って祈誓し給いけるは、伝えうけたまわる日本開闢の主、伊勢天照大神は、本地を大日の尊像にかくし、垂跡を滄海の竜神にあらわし給えりと、吾が君其の苗裔として、逆臣のために西海の浪に漂い給う。義貞今、臣たる道を尽さんために、斧鉞をとって敵陣に臨む。其の志ひとえに王化をたすけ奉って、蒼生を安からしめんとなり、仰ぎ願わくは、内海外海の竜神八郎、臣が忠を鑑みて、潮を万里のほかに退け、道を三軍の陣に開かしめ給えと、至信に祈念し、自ら佩き給える金作りの太刀を抜きて、海中へ投げ給いけり、真に竜神納受やし給いけん、その夜の月のいり方に、前々更に干ることもなかりける稲村が崎、俄かに二十余町干上りて、平沙渺々のたり、横矢射んと構えぬる数千の兵船も、落ち行く潮に誘われて、遥の沖に漂えり、不思議というもたぐいなし。

とにかく、垂迹説というのは素晴らしいおもいつきであって、困ったら、あんたは偉い人の垂迹(仮の姿)であると言っておけばよいわけである。これで仏にしても神にしても、どちらが本地であろうとも仮の姿としてなんか見えている現象が逆に疑えなくなってしまうのだ。お前の見ているのは、現象ではない、本地の仮の姿だ。否定できんだろ?というわけだ。日本のモノ主義、すなわちアニミズムのようには喩えられるものへの飛躍が少ない、見えるものの絶対主義は、こうしてやんわりと「理屈」を持ったのであろう。詳しいことは知らないが、考えたやつの頭のいいことだけは確かである。

ここでは、海は竜神の仮の姿で、竜神は天照大神である。それが奇妙に見えるのは、普段は大日如来として仮の姿の中にいるからだ。そのひとは姿は見えなくてもそこにあり、海にあること自体も絶対的存在となる。もちろん、そうなるとアマテラスの子孫である後醍醐天皇が流浪していることもあくまで仮の現象でなくてはならない。もう現実は神話のごとく仏説のごとく、しかもみたままそのとおりにならなくてはならなくなってくるわけである。

ただし花粉や椰子の実の間にはまだ認められないが、少し大きな生物の群には、それぞれのモーゼがいたようである。彼らの感覚は鋭く、判断は早く、またそれを決行する勇気をも具えていた故に、是と行動を共にしておれば、百ある危険を二十三十に減少することはできたろうが、行く手に不可知がなお横たわるかぎり、万全とは言うことはできなかった。古来大陸の堅い土の上において幾度か行われた民族の遷移でも、さては近い頃の多くの軍事行動でも、勝って歓ぶ者の声のみが高く響き、いわゆる万骨の枯るるものが物言わなかったのである。まして海上の危険はさらに痛烈で、一人の落伍者逃竄者をも許さなかったことは、今さら改めてこれを体験してみるにも及ばなかったのであるが、そういう中にすらもなおこの日本の島々のごとく、最初僅かな人の数をもって、この静かなる緑の島を独占し、無論幾多の辛苦経営の後とはいいながら、ついには山々の一滴の水、または海の底の一片の藻の葉まで、ことごとく子孫の用に供せしめ得たということは、誠にたぐいもない人類成功の例であった。後代にこれを顧みて神々の隠れたる意図、神のよざしと解しなかったら、むしろ不自然であったろう。たとえ数々の物語は事実のままでなかろうとも、感謝のあまりにはかくも解し、またさながらにこれを信ずることもできたのであった。イスラエルの神などは始めに存し、この土この民を選んで結び合わせたのであったが、国が荒れ人がすでに散乱したので、勢い解釈を改めなければすまなかった。我々の国土はやや荒れたりといえども、幸いにして今も血を承けた者が住んでいる。すなわち再び国の成立について、まともに考えてみるべき時期ではないかと思う。

――柳田國男「海上の道」


考えてみると、柳田がこれを戦後に言っていることの意味は大きいかもしれない。戦時下に於いては、新田義貞みたいな大げさなモーゼが現実を絶対化しながら、無理なことを現実と言い張りつづけた。しかし、平和の中では、数限りないモーゼを想定してみなければ我々は生きられないと思ったのではなかろうか。

男と女

2021-03-08 23:55:24 | 文学


其中に足利治部大輔高氏は、所労の事有て、起居未快けるを、又上洛の其数に入て、催促度々に及べり。足利殿此事に依て、心中に被憤思けるは、「我父の喪に居て三月を過ざれば、非歎の涙未乾、又病気身を侵して負薪の憂未休処に、征罰の役に随へて、被相催事こそ遺恨なれ。時移り事変じて貴賎雖易位、彼は北条四郎時政が末孫也。人臣に下て年久し。我は源家累葉の族也。王氏を出て不遠。此理を知ならば、一度は君臣の儀をも可存に、是までの沙汰に及事、偏に身の不肖による故也。所詮重て尚上洛の催促を加る程ならば、一家を尽して上洛し、先帝の御方に参て六波羅を責落して、家の安否を可定者を。」と心中に被思立けるをば、人更に知事無りけり。

昨日、宇佐見りん氏の「かか」を読み直したが、北杜夫と中上健次が合体したような非常に難度の高いことを論理的に組み立てていてさすがであった。中上健次が、肉体に拘りながら一方でオカルトに近いような感覚を持ち合わせていて、そのアンヴィヴァレンツが天皇とか信仰の問題を案外学的に追究する姿勢をとらせていたと思う。だから、かわからないが、作中ではそれほどロジカルではないが、志向性に於いて論理的であるような小説ができあがる。これは、中上にとっての問題が「血」といった物象から離脱しないからであったが、これはなんというか、セックスの問題と「血」の問題が結びつけようとして結びつく、つまりは性交みたいな事柄だからであった。これが、宇佐見氏の場合、語り手が女であり、子を産むということの問題となり、血の問題は、生まれさせられたという観念とならずに生むか生まないかという物質的な主体性の問題となる。宇佐見氏は作中で、主人公の語り手に処女懐胎みたいなものによる観念的解決の妄想を抱かせながら、最後は、生理痛というところに物語を落として逆に、自分が母親を産んだり殺したりする観念的な循環を断ち切って、狂気に陥った母親を中心とする家族を再構築しようとする。この最後が、いまの若者らしい合理的な優しさを感じさせて感動させられる。ネットの仲間を切り離すところも、ちょっとうまく行きすぎているような気がしないではないが……。おもったよりも、最近の社会問題みたいなものをたくさん盛り込んでいる話であって、法律や宗教で解決したがるせかいのなかで、そうではない人間としての合理性があるのだとつよく主張している小説のようにも思われるのだった。

これが、男のように生理痛がないとどうなったであろうか。熊野信仰や自分の先祖を探す旅に出てしまったかも知れない。高氏なんか、体が弱っていたせいなのか、「我は源家累葉の族也。王氏を出て不遠」とかいう理由だけで、「北条は俺に失礼」とか完全にいきり立っているのである。オマエは、源氏の一味かもしれんが、たんに母上の子供だ。

「心中に被思立けるをば、人更に知事無りけり」とか言うてるが、絶対にこのぐらいは人に言うてるね……。

はやくも、高氏以下の軍は、洛中へ入っていた。
 廃墟。都の今はそれにつきる。
 大内の森や里内裏にも、住まうお人はいなかった。
 平家都落ちのむかしとて、こんなではなかったろう。焼けのこった公卿館や死の町の一角はみえるが、昼も人影は稀れで、ふと生き物の声がすると思えば、犬が子を産んでいる。
 そのくせ、夜になると、夜の闇は不気味な脈を生き生きと打ち出して人間のうごきを感じさせてくるのであった。あらゆる悪と兇暴がその中でおこなわれているらしい。また敵とよび合う者同士が嗅覚を研ぎあって諜報の取りやりもしているらしい。しかし草ぶかい野の禽獣の生態みたいに、眼に見えるものではなかった。


――吉川英治「私本太平記」


ほんと吉川英治の文体は嫌いだよ……。「ふと生き物の声がすると思えば、犬が子を産んでいる。」といったところのセンスが凶暴である。禽獣はお前の方だ。

歯噛みのカラクリ

2021-03-07 21:06:45 | 文学


大将のおはしつる本堂へ入つて見れば、よくあわてて被落けりと思へて、錦の御旗、鎧直垂まで被捨たり。備後三郎腹を立てて、「あはれこの大将、如何なる堀がけへも落ち入つて死に給へかし」と独り言して、しばらくはなほ堂の縁に歯嚼みをして立つたりける

木に漢詩を彫りつけた人――児島高徳は、岡山の児島出身だとか言われているが、まあそんなことはどうでもよく、たしかにちょっと劇的な立ち振る舞い方で場面をつくるひとである。ここでも、堂の縁に歯噛みをして立ち尽くす姿は、映画化前提みたいなかんじがする。国民的英雄に祭り上げられた人物であるが、実在も疑われている、まさにプライドそのものの運命を辿るような……

一方、逃げた大将は千種忠顕で、しっかり歌も残っている。「都思ふ夢路や今の寝覚まで いく暁の隔て来ぬらむ」

だいたい、人生逃げた方がよいときもあり、それでこそ後で威張れるということもあるのだ。たいがい我々はそんな卑怯者であり、この真実に耐えられない連中が、児島のような存在の夢を見ているのではなかろうか。

思うに、そういう作用は別にめずらしくもなく寧ろ退屈な心理的な劇である。しかし、最近私が思うのは、我々が常に職場と家庭、組合と町内会やサークル、学会といったものに、多重所属していることの効果についてである。近代の社会は、一応自主的な自治組織の集まりだという建前を崩さないが、この多重所属というありかたは、根本的に自治を行う心理のありかたと直結しているわけではなく、ある場合には、逃げ場の確保にもなるかも知れないが、そうは実際にはなりにくいのが現状だ。ことがそう簡単であったなら、いじめや引きこもりの問題はもっと解きやすいはずだがそうでもない。我々は多重に圧力を受ける人間となり、結局我々の同調圧力というのは、人間関係の輻輳のことではなかろうか。

上田雄一氏などがかんでいた『町内会の研究』を読んでいてそんな気がした。町内会は、占領下で禁止されたが、びくともしなかった。我々の社会は、町内会もどきをメンバーを変えて幾層にも掛けている社会だからであった。

樋口秀実氏がたしか論じていたことだが、日本の東亜共同体論みたいな超国家的で機能主義的なものが逆に中国の国家意識を目覚めさせることがあったんだろうが、これは反作用と言うよりある種の影響という感じがする。つまりは、その機能性というのは畢竟国家主義的なものなのであり、中国の庶民の世界に幾層にも掛けられている共同体を一部壊したかもしれないが、戦前のインテリが考えるより、共同体そのものが孤立していないためその個々の協同はあり得ず、ただの国家主義となる。我々は共同体に包摂されているというより、多くの共同体の求心性に関係づけられている孤立したモノであって、そのなかでは、ただのひとつの求心物に向かって孤立することをゆめみる。あるいは、それが、うえのような児島高徳かもしれないわけである。

――と考えてみたわけだが、われわれ個人は、ほとんどの所属を放棄してしまい、責任も放棄しているというべきかもしれない。だからこそ、夢みることさえ出来ないのだ。

海上俄に風替りて

2021-03-06 23:01:49 | 文学


万里を一時に渡らんと声を帆に挙て推けれ共、時節風たゆみ、塩向て御舟更に不進。水手・梶取如何せんと、あはて騒ぎける間、主上船底より御出有て、膚の御護より、仏舎利を一粒取出させ給て、御畳紙に乗せて、波の上にぞ浮られける。竜神是に納受やしたりけん、海上俄に風替りて、御坐船をば東へ吹送り、追手の船をば西へ吹もどす。さてこそ主上は虎口の難の御遁有て、御船は時間に、伯耆の国名和湊に着にけり。

仏舎利(釈迦の骨)は、龍神に効き目があった。船が進まず絶体絶命の後醍醐天皇の船に突然風が助けに来る。山国育ちのわたくしは木曾川以上の水量を認められないが、我国は海と風に翻弄されてきた国であった。神は山になんとなく「存在」しているのではなく、海と川で実際に「行為」している。

風紋 Fu-mon -保科洋 近畿大学吹奏楽部


高校の時にコンクールの課題曲で演奏した。わたくしはこの題名についてまったく考えもせずに演奏していたが、べつにそれでもよかったのかもしれない。瀬戸内海で実際に見た風紋は、もっと岩やゴミや海藻で寸断されたものであった。「土佐日記」だと、梶取や漕ぎ手がある意味神に近いかもしれない重要な人物として描かれるが、後醍醐天皇を乗せた船の漕ぎ手だっていろいろ知った上で漕いでいたにちがいない。

此の世は、海のやうなものであると。
私はすこししけてゐる宵の海をおもつた
其処を、やつれた顔の船頭は
おぼつかない手で漕ぎながら
獲物があるかあるまいことか
水の面を、にらめながらに過ぎてゆく


――中原中也「憔悴」


本当は、もっと怖ろしいものが海である。わたくしは結局「龍神」みたいな表現が一番しっくりくる。

死者による肉体の加速

2021-03-05 23:10:58 | 文学


「古より源平両家朝家に仕へて、平氏世を乱る時は、源家是を鎮め、源氏上を侵す日は平家是を治む。義貞不肖也。と云へ共、当家の門楣として、譜代弓矢の名を汚せり。而に今相摸入道の行迹を見に滅亡遠に非ず。我本国に帰て義兵を挙、先朝の宸襟を休め奉らんと存ずるが、勅命を蒙らでは叶まじ。如何して大塔宮の令旨を給て、此素懐を可達。」と問給ければ、舟田入道畏て、「大塔宮は此辺の山中に忍て御座候なれば、義昌方便を廻して、急で令旨を申出し候べし。」と、事安げに領掌申て、己が役所へぞ帰ける。

いまでも少年漫画では、「死者による魂の加速」(夏目房之助)みたいな場面があり、有名なところでは、「タッチ」のように、死んだ弟が兄貴の背後からボールに不気味に力を与えるとか、「マキバオー」のように、豚みたいな馬の背後から鼠の霊が脚力を与えるとか、――とにかく、本人以外の力が肉体に働くみたいな場面がある。新田義貞は自分が不肖だと言っているが、だったら引っ込んでおればよいものを、源氏の子孫だということで北条はやっつけなきゃと自分を震い立たせるのである。大概、こんなときには本当は別の理由があったりするものであるが、太平記にはそういうことはあまり書いてない。私が「源氏物語」は文学で、「太平記」は首相の演説みたいなものだと思うのは、かかる理由による。

ただ、あまりにひどい目に遭った人間にとって、最後の最後で、先祖の声が聞こえたりするのはあんまり絵空事ではないらしい。いまでもけっこういるようだ。

松村又一というと作詞家だが、昭和19年には『農土日本詩集』なんてのも編集している。当時の翼賛の雰囲気と関係ない民謡を最後に並べているところが特徴と言えばそうなんだが、松村自身の詩があまりにも平板だ。詩集を見る限り、農民たちは下を向いてしまうか、畑の異性を気にしてふらふらしてしまうので、――闘いには向かない気がするのだ。そういえば、横関至氏がたしか論じていたが、戦後も活躍したところの、産業安全運動の蒲生俊文なんかは、その安全追究が戦時下の状況にこそ有効だと考えたらしい。『産業戦士詩集 われらの戦場』なんかに寄せた「序」なんかだとその安全がただ心身の鍛練に置き換わっているようである。しかしこの「安全」というのが、積極的な心身の鍛練として意識されるのが、農民と違って、いかにも工場労働の発想である気がする。『産業戦士詩集』、いまならさしずめ、サラリーマン川柳であろう。それにしても選者が「体操詩集」の村野四郎であって、ほんとわかりやすい人選である。それにしても、内容を見てみると、農民よりもやはり工場労働者か動員された人かしらないが、実に戦闘的である。例えば、これである。

両方のポケットに幸福をふくらませて
僕は歯車に同化してゆく


――丸山和歌夫「歯ぐるま」


芥川龍之介がスポーツして健康になったら書きそうな感じじゃないか。芥川龍之介の亡霊は、戦時下に「魂の加速」、いや歯車の加速として肉体に作用する。福間敏矩氏の『集成学徒勤労動員』をみたら、勤労動員もちゃんと拒否したりしてた学校とかがあったことがわかり、少し安心する。我々はつねに「太平記」やスポコン的世界へ少しだけ抵抗する。

落石注意

2021-03-04 23:43:16 | 文学


「いでさらば、又寄手たばかりて居眠さまさん。」とて、芥を以て人長に人形を二三十作て、甲冑をきせ兵杖を持せて、夜中に城の麓に立置き、前に畳楯をつき双べ、其後ろにすぐりたる兵五百人を交へて、夜のほのぼのと明ける霞の下より、同時に時をどつと作る。四方の寄手時の声を聞て、「すはや城の中より打出たるは、是こそ敵の運の尽る処の死狂よ。」とて我先にとぞ攻合せける。城の兵兼て巧たる事なれば、矢軍ちとする様にして大勢相近づけて、人形許を木がくれに残し置て、兵は皆次第々々に城の上へ引上る。寄手人形を実の兵ぞと心得て、是を打んと相集る。正成所存の如く敵をたばかり寄せて、大石を四五十、一度にばつと発す。一所に集りたる敵三百余人、矢庭に被討殺、半死半生の者五百余人に及り。軍はてゝ是を見れば、哀大剛の者哉と覚て、一足も引ざりつる兵、皆人にはあらで藁にて作れる人形也。是を討んと相集て、石に打れ矢に当て死せるも高名ならず、又是を危て進得ざりつるも臆病の程顕れて云甲斐なし。唯兎にも角にも万人の物笑ひとぞ成にける。

楠木軍対幕府軍。有名なわら人形の場面である。楠木軍がしかけた人形めがけて突撃した幕府軍に上から大石を浴びせかけたのである。いまは忘れかけているが、石というのは戦争の時には必殺の兇器のひとつである。巨石の遺跡とか、我々のくにでもよくあるご神体としての巨石とか、上の写真だと尾道の千光寺の巨岩とか、さまざまなものがあるが、それは明らかに殺傷の記憶と繋がっているはずである。それはしかしそれは死を悟る道であって、ほんと、日本は石の墓だらけである。

夕刊にはもう桜が咲いたと云うニュースが出ていた。尾道の千光寺の桜もいいだろうとふっと思う。あの桜の並木の中には、私の恋人が大きい林檎を噛んでいた。海添いの桜並木、海の上からも、薄紅い桜がこんもり見えていた。私は絵を描くその恋人を大変愛していたのだけれど、私が早い事会いに行けないのを感違いして、そのひとは町の看護婦さんと一緒になってしまった。ベニのように、何でもガムシャラでなくてはおいてけぼりを喰ってしまう。桜はまた新らしい姿で咲き始めている。――やがてベニはパパが帰って来たので、帯と足袋を両手にかかえると、よその家へ行くようにオズオズ帰って行った。別に呶鳴り声もきこえては来ない。あのパパは、案外ケンメイなのかも知れないと思う。ベニが捨てて行った紙屑を開いてみたら、宿屋の勘定がきだった。
 十四円七十三銭也。八ツ山ホテル、品川へ行ったのかしら、二人で十四円七十銭、しかもこれが四日間の滞在費、八ツ山ホテルと云う歪んだ風景が目に浮んでくる。


――林芙美子「放浪記」


林芙美子は、桜がとか言って、その実男のことばかり書いている。石に集中すれば、死と結びついた悟りの道に進んだかも知れないのに、彼女の進んだのはそうではない道であった。しかしそれで、彼女は生の文学をつくりだした。戦時下の彼女を読むと、戦争すらも人が死ぬことであると認識しているかあやしいのだ。それは人でなしという意味でなくて、むしろ、死をも生と見るという意味で。

艮神社を2011年に訪ねた(広島の神社1)

2021-03-03 23:53:07 | 神社仏閣
もう10年の前になるけれども尾道に文学散歩に単身行ってきたことがあった。その頃はあまり神社にも興味がなかったが、千光寺山ロープウェイから下界を見ると巨大な植物がみえたが、それが有名なクスノキ群であった。ロープウェイをおりて早速行ってみたのを思いだした。



参道のひとつをふりかえる





クスノキ。樹齢900年だそうである。



本殿横の巨石。



巨石の頭を覗いてみる、クスノキが見える。



https://www.buccyake-kojiki.com/archives/1023739803.html

上の記事によると、

平安時代は、スサノオ=牛頭天王社として出発したらしい。もとは福山市木之庄町にあったらしいのだ。で、建武のころ、この地にやってきた。イザナギを一緒に祀ることにし産土神となる。秋津洲神社と改称するのであった。江戸時代になると、福山城築城のときに、「城郭の鬼門・艮(うしとら)の方位(北東)を鎮める守護神として、秋津艮大明神」となる。江戸期の福山藩主の尊崇をうけて大きくなる。と、ここまでは、わりとよくある鬼門守護神、厄除神の誕生である。ところが、戦後、全国的にいまのおじさんや若人に知られることになる、――「時をかける少女」の主人公が、時空の裂け目から落っこちたり、「かみちゅ!」(見たことないが)に登場した結果、所謂「聖地」となったのだ。と思っているうちに、いまや、外敵から守る守護・厄除けといった受け身の姿勢から、「パワースポット」とかいう謎の積極トポスと化した神社である。そういえば全国の他の神社も、そうなっている。現在が、神社が歴史上最も「精神的な」何かとして見られている時代ではなかろうか。いままでは、どちらかというと何か見えない武具みたいなものだったのだ。



憂愁の文学が、陰鬱な時代に出て来るとすれば、其は愚痴文学であり、口説の文学に過ぎぬであらう。
其と今一つ、もつと芸文を育てる原動力になるものは、擁護者である。擁護する者なしに、育つてこそ、真の芸文ではあつても、擁護するものゝない迫害の時勢には、芸文は萎れいぢけてしまふのである。「花」は花でも、温室の花を望む吾々ではない。擁護者の手で、さもしい芸文の幸福を、偸みたいとも思はぬ。
だが、さう言ふ擁護によつても、咲くべき花の、大いに咲いて来て居るのが、歴史上の現実であつた。成り上り時代・俄分限の時勢の、東山・桃山・元禄などの時代が、吾々に多くの遺産を残してくれたことは、疑はれぬ事実なのである。此が、文士・芸術家の理想を超越した世間の姿なのであつた。


――折口信夫「文芸の力 時代の力」



折口は大げさに言っているけれども、結局いつも花は咲くっちゃ咲くということだ。文学は分からんぞ、でも花は咲くだろう。クスノキも大きくなる。

幻影としての予言

2021-03-02 23:35:06 | 文学


正成悦て則是を披覧するに、不思議の記文一段あり。其文に云、当人王九十五代。天下一乱而主不安。此時東魚来呑四海。日没西天三百七十余箇日。西鳥来食東魚を。其後海内帰一三年。如獼猴者掠天下三十余年。大凶変帰一元。云云。正成不思議に覚へて、能々思案して此文を考るに、先帝既に人王の始より九十五代に当り給へり。「天下一度乱て主不安」とあるは是此時なるべし。「東魚来て呑四海」とは逆臣相摸入道の一類なるべし。「西鳥食東魚を」とあるは関東を滅す人可有。「日没西天に」とは、先帝隠岐国へ被遷させ給ふ事なるべし。「三百七十余箇日」とは、明年の春の比此君隠岐国より還幸成て、再び帝位に即かせ可給事なるべしと、文の心を明に勘に、天下の反覆久しからじと憑敷覚ければ、金作の太刀一振此老僧に与へて、此書をば本の秘府に納させけり。

聖徳太子が書いたらしい「未来記」を見た正成の目には奇妙な文字の羅列が映った。九十五代後醍醐天皇の時代にその地位が安泰でなくなるところまでは分かる。しかし、それからは東の魚が四海を飲むとか西の鳥が東の魚を食うとか……。聖徳太子に限らず、予言の書というのは、なぜかくも突然動物の世界に切り替わるのであろうか。全然予言ではなく、動物園に来たみたいではないか。我々も、しばしば動物を見ていると、我々の未来が見えることがある。彼らは我々よりも大概はやく死んでゆくからだ。彼らの一生は、我々のそれを早送りしている。我々は我々の未来をみて安心する。苦しみもいずれは終わるのである、と。

しかし、本当は聖徳太子は、本当に魚や鳥の夢、猿が我々の世界を跋扈する夢を見ていただけではなかろうか。

この前、チャウシンチー監督の「西遊記 はじまりのはじまり」というコメディを見たが、怪魚とかただの巨大猪とかが少林サッカーのノリで大暴れしており、とても楽しい映画であった。対して、楠正成は、折角の太子の西遊記まがいの夢を、比喩としてうけとり、無理な後醍醐天皇の復位にむかって燃えるのである。

だいたい、我々は戦争を人間のドラマとして考えすぎているのではないか。アメリカをみよ、どうみても、人間の戦争という観念はもうとっくに我々と闘っているころからやめている。我々は、「桃太郎 海の神兵」あたりでそれに気付いたのであるが、四海を食う魚(原子爆弾)とかを考える未来記の思考にはかなわない。むろん日本でも「未来記」は明治以来多く書かれてきたのだが、その荒唐無稽さを意識しすぎた結果、現実に帰りすぎた気がする。

第五の見慣れぬ旅人 頓死したものとも思える。
第四の見慣れぬ旅人 よくあることだ。
第六の見慣れぬ旅人 また、今夜も夢見がよくない。
第五の見慣れぬ旅人 夜が、長くなった。
第七の見慣れぬ旅人 この旅人を葬ってやりたいものだ。
(旅人の一群は倒れたる歌うたいを取り巻いて暫時思いに沈む。この時、日の沈んだと反対の地平線から、赤い月が上った。その色は地震があるか、風が出るか、悪いことのある前兆と見えて、頭痛のするように悩ましげな赤い不安な色であった。)
第五の見慣れぬ旅人 あの、月の色を見い。
第四、第五の見慣れぬ旅人 あの、月の色は……。
(一同月の方を振向いて不安の思いに眉を顰む……沈黙……。)


――小川未明「日没の幻影」


我々の先祖たちは、何回このような風景を見てきたのであろう?それは――、科学でもなく、想像でもない、幻影である。