もう10年の前になるけれども尾道に文学散歩に単身行ってきたことがあった。その頃はあまり神社にも興味がなかったが、千光寺山ロープウェイから下界を見ると巨大な植物がみえたが、それが有名なクスノキ群であった。ロープウェイをおりて早速行ってみたのを思いだした。

参道のひとつをふりかえる


クスノキ。樹齢900年だそうである。

本殿横の巨石。

巨石の頭を覗いてみる、クスノキが見える。

https://www.buccyake-kojiki.com/archives/1023739803.html
上の記事によると、
平安時代は、スサノオ=牛頭天王社として出発したらしい。もとは福山市木之庄町にあったらしいのだ。で、建武のころ、この地にやってきた。イザナギを一緒に祀ることにし産土神となる。秋津洲神社と改称するのであった。江戸時代になると、福山城築城のときに、「城郭の鬼門・艮(うしとら)の方位(北東)を鎮める守護神として、秋津艮大明神」となる。江戸期の福山藩主の尊崇をうけて大きくなる。と、ここまでは、わりとよくある鬼門守護神、厄除神の誕生である。ところが、戦後、全国的にいまのおじさんや若人に知られることになる、――「時をかける少女」の主人公が、時空の裂け目から落っこちたり、「かみちゅ!」(見たことないが)に登場した結果、所謂「聖地」となったのだ。と思っているうちに、いまや、外敵から守る守護・厄除けといった受け身の姿勢から、「パワースポット」とかいう謎の積極トポスと化した神社である。そういえば全国の他の神社も、そうなっている。現在が、神社が歴史上最も「精神的な」何かとして見られている時代ではなかろうか。いままでは、どちらかというと何か見えない武具みたいなものだったのだ。

憂愁の文学が、陰鬱な時代に出て来るとすれば、其は愚痴文学であり、口説の文学に過ぎぬであらう。
其と今一つ、もつと芸文を育てる原動力になるものは、擁護者である。擁護する者なしに、育つてこそ、真の芸文ではあつても、擁護するものゝない迫害の時勢には、芸文は萎れいぢけてしまふのである。「花」は花でも、温室の花を望む吾々ではない。擁護者の手で、さもしい芸文の幸福を、偸みたいとも思はぬ。
だが、さう言ふ擁護によつても、咲くべき花の、大いに咲いて来て居るのが、歴史上の現実であつた。成り上り時代・俄分限の時勢の、東山・桃山・元禄などの時代が、吾々に多くの遺産を残してくれたことは、疑はれぬ事実なのである。此が、文士・芸術家の理想を超越した世間の姿なのであつた。

折口は大げさに言っているけれども、結局いつも花は咲くっちゃ咲くということだ。文学は分からんぞ、でも花は咲くだろう。クスノキも大きくなる。

参道のひとつをふりかえる


クスノキ。樹齢900年だそうである。

本殿横の巨石。

巨石の頭を覗いてみる、クスノキが見える。

https://www.buccyake-kojiki.com/archives/1023739803.html
上の記事によると、
平安時代は、スサノオ=牛頭天王社として出発したらしい。もとは福山市木之庄町にあったらしいのだ。で、建武のころ、この地にやってきた。イザナギを一緒に祀ることにし産土神となる。秋津洲神社と改称するのであった。江戸時代になると、福山城築城のときに、「城郭の鬼門・艮(うしとら)の方位(北東)を鎮める守護神として、秋津艮大明神」となる。江戸期の福山藩主の尊崇をうけて大きくなる。と、ここまでは、わりとよくある鬼門守護神、厄除神の誕生である。ところが、戦後、全国的にいまのおじさんや若人に知られることになる、――「時をかける少女」の主人公が、時空の裂け目から落っこちたり、「かみちゅ!」(見たことないが)に登場した結果、所謂「聖地」となったのだ。と思っているうちに、いまや、外敵から守る守護・厄除けといった受け身の姿勢から、「パワースポット」とかいう謎の積極トポスと化した神社である。そういえば全国の他の神社も、そうなっている。現在が、神社が歴史上最も「精神的な」何かとして見られている時代ではなかろうか。いままでは、どちらかというと何か見えない武具みたいなものだったのだ。

憂愁の文学が、陰鬱な時代に出て来るとすれば、其は愚痴文学であり、口説の文学に過ぎぬであらう。
其と今一つ、もつと芸文を育てる原動力になるものは、擁護者である。擁護する者なしに、育つてこそ、真の芸文ではあつても、擁護するものゝない迫害の時勢には、芸文は萎れいぢけてしまふのである。「花」は花でも、温室の花を望む吾々ではない。擁護者の手で、さもしい芸文の幸福を、偸みたいとも思はぬ。
だが、さう言ふ擁護によつても、咲くべき花の、大いに咲いて来て居るのが、歴史上の現実であつた。成り上り時代・俄分限の時勢の、東山・桃山・元禄などの時代が、吾々に多くの遺産を残してくれたことは、疑はれぬ事実なのである。此が、文士・芸術家の理想を超越した世間の姿なのであつた。
――折口信夫「文芸の力 時代の力」

折口は大げさに言っているけれども、結局いつも花は咲くっちゃ咲くということだ。文学は分からんぞ、でも花は咲くだろう。クスノキも大きくなる。