★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

青空の奥には暗黒とアンテナ

2010-11-16 07:31:18 | 思想


これはいったい、どううけとめてよいのだろうか?禁制または共同幻想を生みだす母胎が、〈村落共同体〉のような弱小な生活圏であることはうなずけるとしても、もうひとつの条件が個体の入眠幻覚であるであるというとき、なぜそれが条件になるのだろうか?
(松岡俊吉「〈禁制論〉小考」)



おはやうございます4

2010-11-16 07:06:16 | 文学


「舞姫」のパロディを50ほど読んで夜が明けてしまった訳だが、私の貴重な睡眠時間をどうしてくれる、結局予想される結論

「舞姫」は傑作だった。×大生がパロディにすると100倍つまらなくなる。
もしかしたら、「舞姫」は川柳的なセンスを潰すところに真の狙いがあったのかもしれません。

エリス15歳と25センチLP

2010-11-15 23:40:38 | 文学
共通科目「文学」のレポート──「舞姫」のパロディ小説、80人分の採点に発狂しつつ、

「舞姫」のエリス15歳説に嫉妬 感心しつつ、
(http://www.asahi.com/showbiz/tv_radio/TKY201011110203.html 「「舞姫は15歳」説に新証拠 刺繍用型金にイニシャル」)

ついでに、ガーシュインを聴く。


LPだけど30センチじゃなく少し小型の25センチ版というので、昔そういえばあったわ……。ハードオフで100円で買ってきました。ワルター・ゲール指揮、コンサートホール交響楽団です。

我が転向

2010-11-14 19:17:02 | 大学


昨日は、盟友の家族にお呼ばれに行ってきたのだが、お子様たちがえっちらおっちら歩き回るのを見て、とても可愛らしいと思い、このたび私は、「子どもは堕天使」説から「子どもは天使」説に転向致しました。

これからは教育学部の方針に則り、子どもを褒めて褒めて褒めまくろうと思います。

ふて寝

2010-11-12 20:53:26 | 大学


殆ど二日寝てないし、レポート提出が遅れる奴とか、レポートが遅れてばればれの言い訳する奴とか、レポートを出しに来ていきなり泣き出す奴とか、──もうふて寝するのであしからず。

秋山英夫訳のウェルテルで長夜は泣くべし

2010-11-11 20:43:47 | 文学


さあ、ロッテ! 僕はひるまずに、このつめたい怖ろしい杯を手にとり、死の陶酔を飲みほします! これは、あなたが渡してくれたもの、僕はたじろぎません。すべてが!  すべてが!これで僕の生涯のすべての願いと望みがみたされるのです!死の青銅の門をたたくというのに、僕はこんなに冷静で、こんなに毅然としているのです。
 このように死ぬにしても、あなたのために死ぬのだという幸福にあずかりえたらと、切に思います! ロッテ、あなたのために、この身をささげるのだったら! あなたの生活の安静とよろこびをふたたびあなたにかえすのであれば、僕はよろこびいさんで死んで行こうと思います。しかし、ああ! 親しい者たちのために血を流し、その死によって、それに百倍するあたらしいいのちの火を友人たちにかきたててやることは、ただ少数の高貴な人たちにしか許されなかったことです。
 ロッテ、僕はこの服装のままで埋葬されることを望んでいます。あなたがこれに触れ、きよめてくださったのですから。お父さまにもこのことはおねがいしておきました。僕のたましいは、もう柩が上にただよっています。ポケットは探さないでください。この淡紅色のリボン、──僕がはじめて子供たちのあいだにいらっしゃるあなたを見たとき、あなたはこれを胸につけていらっしゃいました──。おお、子供たちには千度、接吻してやってください。そして、不幸な友人の身の上を話してやってください。かわいい子供たち! みんな僕のまわりに集まってきます。ああ、どんなに僕はあなたと結びついていたことか! あの最初のときから、あなたを放すことはできなかった! ──このリボンを僕と一緒に埋めてください。僕の誕生日に、あなたが贈ってくださったものでした! こうしたものに、僕はどんなにか、むさぼるように、とびついたことでしょう! ああ、あの道がこんなところに僕をつれてこようとは、考えてもいなかったのに! ─ ─ びっくりしないでください! ──おねがいです、びっくりしないで! ──  弾は込めてあります──十二時が打っています! では! ──ロッテ! ロッテ、さようなら! さようなら!」

 隣家の者が火薬の閃火を見、銃声をきいた。しかし、それっきり静まりかえってしまったので、それ以上気にもとめなかった。
 翌朝六時、従僕があかりを持ってはいって行った。彼は床に倒れている主人と、ピストルと血を見た。大声で呼び、主人のからだをつかんてみたが、答えはなく、まだ、のどをごろごろ鳴らしているだけだった。従僕は医者のところへ走った。それからアルベルトのところへかけつけた。口ッテは呼鈴を引く音を聞いた。戦慄が全身をつっ走った。良人を起し、ふたりは起きあがった。従僕は、わめくように、どもりながら、ことを告げた。ロッテは気を失って、アルベルトのまえへ倒れた。
 医者が来たとき、不幸な男は床に倒れたままで、もう手のほどこしようはなかった。脈は打っていたが手足はすべて麻痺していた。右の目のうえから頭を射ちぬいたのだった。脳漿が流れ出ていた。医者は念のため腕の血管をひらいた。血がほとばしった。呼吸はまだつづいていた。
 椅子のよりかかりのところに血がついていたことから推して、机にむかって坐ったまま自殺を決行したものらしく、それから床にすべり落ちて、身もだえしながら椅子のまわりをころげまわったのであろう。窓にむかって、ぐったり仰向けに倒れていた。長靴をはき、黄色いチョッキに青い燕尾服で、きちんと身ごしらえしていた。
 家が、となり近所が、町じゅうが大騒ぎになった。アルベルトがはいってきた。ウェルテルは寝床のうえにねかされていた。額には、包帯がしてあった。顔はもう死人のようで、手足はまったく動かなかった。肺だけがまだ気味わるく、ときに弱く、ときに強く、ごろごろ鳴っていた。臨終が追っていると思われた。
 ぶどう酒は一杯しか飲んでなかった。『エミーリア・ガロッティ』(ドイツの詩人レッシングの悲劇)が机の上に開いたままになっていた。
 アルベルトの狼狽ぶりやロッテの悲歎については、なにも言わないでおきたい。
 老法官は、しらせを聞いて、馬でかけつけた。彼は、あついあつい涙とともに死にゆくウェルテルに接吻した。そのあとを追って、まもなく上の息子たちが歩いてやってきた。彼らは、おさえかねる痛苦をおもてにあらわして、べッドのそばに突っぷし、ウェルテルの手に、口に、接吻した。彼がいつも一番かわいがっていた長男は、彼の唇にしがみついて離れず、とうとうウェルテルが息をひきとってから、みんなが無理に少年をひきはなしたのであった。正午の十二時に彼は死んだ。法官がいて手配をしたので、騒ぎはおこらずにすんだ。夜の十一時ごろ、法官は、ウェルテルがみずからえらんだ場所に、遺骸を葬らせた。老法官と男の子たちが、遺骸についていった。アルベルトは行けなかった。ロッテの生命が気づかわれたからである。職人たちが棺をかついで行った。牧師は同行しなかった。

(恋愛小説の授業のために、写してたら胸が疾風怒濤してきました……)

正しいか正しくないかは問題ではあるが、それ以上の問題もある

2010-11-10 23:08:52 | 大学


今日は、卒業論文中間発表会第1回目であった。ゼミ生たちは、総じて上の写真のような体たらくであった。

学問に関する集まりではどこでもそうだけど、発表する側の知性が問われていることは無論であるが質問する側も同じように問われている。読み落とし、思いこみ、無意味な繰り返しなどがはっきりと現れている場合はいいが、問題なのは、だいたいに於いて正しいにもかかわらず、というより確かに正しいにもかかわらず、なぜか知性が欠落しているのが明白な場合である。

学生の皆さんは、学問的な経験値が浅い。しかし上のような事情を感知する能力を備えていてほしいとねがうばかりだ。そうでないと、結局実りのある学びはありえないし、学問的な進捗もあり得ないのである。

結論からいえば、以上のような意味で、我々は急激に悪化の一途を辿っているのではなかろうか。

ドイツ零年と妄想

2010-11-10 02:15:53 | 映画

さて寝るか……


あ、隣の部屋のライト消し忘れた

と、起きあがったついでに本を読み始めてしまったので、ついでに書き始めてしまったのであるが……。

最近また子どもの自殺のニュースがあったが、子どもの自殺と聞いて私がすぐに想い出すのは、映画「ドイツ零年」(1948)である。主人公の少年は、戦時中の教育もあってか、病弱な父親を毒殺し、みずからも廃墟のビルから身を投げてしまう。ラストシーン──まるで小さい木材か鉄材が墜ちるようなあっけない墜落に驚かされる。私は自殺をしたことがないので、わからないが、自殺とはこういうものだという気がしてならないのである。彼の自殺は単なる周囲や自分に対する絶望でも罪悪感でもなく、一種の後追いなのではなかろうか。私は、ウェルテルやアイドルの自殺の後を追った若者のことも思い浮かべる。我々は結局、一人では死ねないのではないか。追いすがる人々(親や教師もここに含まれている場合があるのは無論である)から逃れるためにも、誰かが先に待っていなければならないのではなかろうか。

私はいまのところ自殺願望もなく、いかに甘い汁にありつこうかと虎視眈々と機会を窺っているような人間なので、想像がつかない…が……。自殺するエネルギーが、例えば自分を虐めた奴らとか上司とかを殺す方向に向かわないのは、そんな屑といっしょに旅立ちたくはないからではなかろうか。

もちろん、これは私の妄想である。

ただ、こういう事件が起きるたびに、「親はかわいそう」→「担任は事態を把握せよ。っていうか、管理職はなにをやっていたのだ。」→「もっとみんなで連携しなきゃ」→「子どもをケアせよ。子どもを一人で食事させるな。」→「教育が~教育が~」→「とりあえず孤立している責任者を吊せ」というこのパターンを繰り返すよりは、ちょっとちがう妄想をしてみたかったのである。上記のパターンがいじめの構造そのものをなぞっているのは、相当な馬鹿でも理解できる。いじめによる自殺を喜んで報道しておいて、ついでに自分たちもいじめをやっているのだから世話はない。だいたい、自殺できない世の中の方がよっぽどファシズムであることは確かだろう。

われわれの社会に必要なのは、義憤を自省し羞恥するような心の動き方ではなかろうか。もう絶望的であるが。

白昼恐怖劇場2

2010-11-09 10:49:58 | 文学



草の長さ三寸あれば狼は身を隠すといえり。草木の色の移り行くにつれて、狼の家の色も季節ごとに変わりていくものなり。(「遠野物語」40)



遠野郷野民家の子女にて、異人にさらわれて行く者年々多くあり。ことに女に多しとなり。(「遠野物語」31)



阿爺、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入り口の材木を枕にして二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕らえられて牢に入れられた。(「山に埋もれたる人生ある事」)

白昼の恐怖

2010-11-09 10:25:27 | 文学

太陽な必死さ





この男ある奥山ヘ入り茸をとるとて小屋を掛け宿りてありしに、深夜に遠き処にてきゃーという女の叫び声聞え胸を轟かしたることあり。里へ帰りてみれば、その同じ夜、時も同じ刻時に、自分の妹なる女そのその息子のために殺されてありき。(「遠野物語」10)


うしおととらとわたくしのみたゆめ

2010-11-08 04:46:44 | 漫画など
なんともだるいときに「うしおととら」を読み始める。

まだ読み始めたばかりだが、えーとこれは「デビルマン」の民俗学バージョンみたいな感じかな……。主人公のうしおが母親探し?に出かけて、(なんか理由があったかもしれないけど、わすれたが……)まず行くのが案の定「遠野」。「遠野物語」だね。うしおが美術部の学生であるというのも、なんとなく当時の写実主義をおもわせるな、柳田と言えば、「海上の道」であるが、うしおもどうやら海へと突入する模様?なので、日本人のルーツでも辿りに行くのであろうか?中国文化対南方文化の大戦争でもやらかすつもりなのか?少なくとも、遠野という場所を出してしまうと、人間対デビルマン対天使みたいな抽象的で大きい話にはなりにくいな……

ところで、昨日、夢をみたのだが、私が家を建てる場所を探していて、誰かがそこがよいというので、そこに行ってみると、沼のようなところがあり、畔に一つ金魚鉢が置いてあり、中に黒い大きい魚が泳いでいるのだった。沼が余りに黒いので、後ろのいるはずの人を振り返ってみたが、後ろは更に大きい沼であった。