★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ドイツ零年と妄想

2010-11-10 02:15:53 | 映画

さて寝るか……


あ、隣の部屋のライト消し忘れた

と、起きあがったついでに本を読み始めてしまったので、ついでに書き始めてしまったのであるが……。

最近また子どもの自殺のニュースがあったが、子どもの自殺と聞いて私がすぐに想い出すのは、映画「ドイツ零年」(1948)である。主人公の少年は、戦時中の教育もあってか、病弱な父親を毒殺し、みずからも廃墟のビルから身を投げてしまう。ラストシーン──まるで小さい木材か鉄材が墜ちるようなあっけない墜落に驚かされる。私は自殺をしたことがないので、わからないが、自殺とはこういうものだという気がしてならないのである。彼の自殺は単なる周囲や自分に対する絶望でも罪悪感でもなく、一種の後追いなのではなかろうか。私は、ウェルテルやアイドルの自殺の後を追った若者のことも思い浮かべる。我々は結局、一人では死ねないのではないか。追いすがる人々(親や教師もここに含まれている場合があるのは無論である)から逃れるためにも、誰かが先に待っていなければならないのではなかろうか。

私はいまのところ自殺願望もなく、いかに甘い汁にありつこうかと虎視眈々と機会を窺っているような人間なので、想像がつかない…が……。自殺するエネルギーが、例えば自分を虐めた奴らとか上司とかを殺す方向に向かわないのは、そんな屑といっしょに旅立ちたくはないからではなかろうか。

もちろん、これは私の妄想である。

ただ、こういう事件が起きるたびに、「親はかわいそう」→「担任は事態を把握せよ。っていうか、管理職はなにをやっていたのだ。」→「もっとみんなで連携しなきゃ」→「子どもをケアせよ。子どもを一人で食事させるな。」→「教育が~教育が~」→「とりあえず孤立している責任者を吊せ」というこのパターンを繰り返すよりは、ちょっとちがう妄想をしてみたかったのである。上記のパターンがいじめの構造そのものをなぞっているのは、相当な馬鹿でも理解できる。いじめによる自殺を喜んで報道しておいて、ついでに自分たちもいじめをやっているのだから世話はない。だいたい、自殺できない世の中の方がよっぽどファシズムであることは確かだろう。

われわれの社会に必要なのは、義憤を自省し羞恥するような心の動き方ではなかろうか。もう絶望的であるが。


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