★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

形式の帰還

2010-09-03 23:40:33 | 文学
私の大学院後半からの課題は、ひたすら、抽象的に見えるものを具体的な文脈に翻訳することだったと思う。大学院前半での形式化への反省によってそうなった。ただ、ややそれをやりすぎた結果、ただの経験的な問題しか論じられなくなってきていることも確かである。

時代とか、環境とか、引用とか、そんなところに還元していくやり方の底のない恐ろしさを知らないものは、多文化主義とかなにやらでひたすら突き進んで頂ければいいのだが、……退屈に思えてきた。もともと私が考えようとしていた問題をすこし想い出してみる必要がありそうだ。文学的な言い方になるが、過剰な情熱を持つ人間は観念的ではなく形式的である──この問題である。

病と文学

2010-09-02 22:46:32 | 大学
今日はやや久しぶりにゼミでK君に会う。私は論文書いてもさほど痩せないのに、K君はなんだかどんどん痩せている。だいたい私の歴代のゼミ生は、卒論を書いてダイエットに成功してゆく。例外は、初めての私の指導学生のひとりだったNさんぐらいであろうか。結構優秀だったが、「頭働かせようと思って、おかし食べながら書いてたら、結構キテます」と言って私を激しく憎んでいたようである。一昨年、秋頃から親知らずが痛くなったのだが、ゼミ生も一緒に痛くなったらしい。またある学生は新感覚派という単語を聞くといきなりうわごとを言ってしまうほどであった。「砂の女」を論じていた学生は、なぜか「憂×」や「セ×ン×ィーン」まで読む羽目になった。

近代文学の歴史が、病と関係あることはよく知られているが、近代文学の終わり(柄谷行人)を迎えているかも知れない今、文学が病を発症させる、のかもしれない。

舊字は私を狂わせる

2010-09-01 17:35:03 | 文学
論文を書いていて気になるのは、文章を引用するとき漢字を旧字にするか新字にするかである。

仮名遣いは基本的にそのままで引用するのに、旧字は新字に直すことがある。

そろそろそれはまずいかなと思い始めた。

梶井基次郎の「檸檬」は、この字でなければならない。「レモン」じゃだめだ。これは漢字とカタカナの関係じゃないかというかもしれないが、先日引用した「楕円幻想」はもともと「惰圓幻想」なのである。「円」という字のスカスカさ加減は「レモン」と同レベルと思われないだろうか。

先日まで書いていた論文では、事情があって、新字に直してしまったが、引用された文章を眺めていると、明らかにそのひらがなと英語と画数の多い峻厳な旧字のバランスとリズムにおいて、文章の表情が作られていることが分かるのだ。私は、新字に直していてほんと狂いそうになったよ。これはだめだ!

こんな細かいところには神経が過敏になってるのに、論理の方はゆるゆるになるのは私の悪いところである。