![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/b0/2deaf750016e7493b21f1856990995fd.jpg)
うばたまや闇のくらきに雨雲の八重雲がくれ雁ぞ鳴くなる
黒いもの集めて詠んだ歌。井伏鱒二に「屋根の上のサワン」という作品があったが、これは「山椒魚」を反転させたような作品で、我々に果たして解放はあるのかと自問させる。サワンは人間の比喩であろうか。たぶん、それを言うにはあまりに動物は動物であり、サワンは我々にとって願望みたいなものだ。もっとも、上の実朝に比べればまだもがきたがっている精神が描かれているという意味で、絶望(――達観か?)の度合いは低い気がする。
一方で、実朝も井伏も両方やっつけようと思えば、次のような考えも出てこなくはない。
三島「ことばを刻むように行為を刻むべきだよ。彼ら(全学連)はことばを信じないから行為を刻めないじゃないか。[略]彼らはことばの軽さに慣れて、テレビ的行為を素晴らしい政治行為だと思っちゃうんだよ」
――三島由紀夫・高橋和巳「大いなる過渡期の論理」
実朝のみた闇の世界もサワンに逃げられた井伏もそれは行為と同じような言葉の世界を持っていた、それは一種の言行一致で、その他に行為の世界があった。――に違いないのだが、テレビの出現によってそれが揺らぐ。今度は言行一致の条件は、テレビ的な甘さを払拭していなければいけなくなったのである。太宰治が、最後に映像作品の脚本を書いて亡くなったのは、非常に面白い現象である。