時によりすぐれば民の嘆きなり 八大龍王雨やめたまへ
実朝のうたを鑑賞してると、本歌取りなどのオリジナリティをなかば放棄したようなやりかたがかえって素朴さを生み出すみたいな感じがする。それは感情の刷新だったんだね、という気がする。主客未分の状態でそれがでてくるのである。
なぜかといえば、そこには自分の思索ではなく他人の歌が自然に流れ込むからである。そのためには、他人の歌を自然に歌わせる技術がなければならない。これは演奏に近い。例えば、西田幾多郎が、主客未分の説明の時に「一生懸命に断岸を攀ずる場合の如き、音楽家が熟練した曲を奏する時の如き」(『善の研究』)と言っている。西田幾多郎は、こういう熟練が好きで、彼が古典世界をよく知っていたことと無関係ではないと思う。しかし、自我の輪郭にこだわるわたしなんかが、西田の言葉に続いて想起してしまうのは、――二階から飛び降りたり手を切りつけたりする「坊っちゃん」の行為で、西田と漱石の違いはけっこうわたしにとっては重要である。漱石のは、新しい感情というより、何か不気味な何かという感じがする。
漱石の主人公は、不器用で、――というより、行為や言葉が急に飛び出すタチなのである。漱石の作品には、感情の刷新ではなく、何かの塊がごろごろ転がっている印象である。藤村の方が「新しい感情」にちかいものに拘って居た。
誰か舊き生涯に安んぜむとするものぞ。おのがじゝ新しきを開かんと思へるぞ、若き人々のつとめなる。生命は力なり。力は聲なり。聲は言葉なり。新しき言葉はすなはち新しき生涯なり。
――藤村「藤村詩抄 自序」
これは、小学校の担任の牛丸仁先生が、小6の我々に配ったプリントのなで、自分の文章とともに引用していて、いまでも強烈に頭に残りつづけている。彼にとっては新しき言葉は新しき生涯のことである。彼の生涯が案外新しくはならなかったことを詰ってもしょうがない。藤村たちは、実朝の時代と違い、人生こそが容易ではなくなってしまった事態をよく分かっていたに違いないのである。