★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

日ごろなやましうてしはぶきなどいたうせらるる

2020-04-28 20:55:00 | 文学


かかるほどに、祓のほどもすぎぬらん、七夕はあすばかりと思ふ。忌も四十日ばかりになりにたり。日ごろなやましうてしはぶきなどいたうせらるるを、物怪にやあらん、加持もこころみむ、狭ばきどころのわりなく暑きころなるを、例もものする山寺へのぼる。 十五六日になりぬれば、盆などするほどになりにけり。見れば、あやしきさまに荷なひいただき、さまざまにいそぎつつ集まるを、もろともに見てあはれがりもわらひもす。さて心ちもことなることなくて、忌みもすぎぬれば京にいでぬ。

「しはぶき」は咳で蜻蛉さんは風邪らしい。しはぶきで多く人が死んだとも「増鏡」にあるらしい。インフルエンザだったのであろうか……。源氏物語でも、夕顔が死んでショックで寝込む源氏がケホケホいっている。「舞姫」では、エリスを捨てた豊太郎が無茶をして風邪で卒倒する。物語の世界は病で充ち満ちている。結核やうつ病が近代文学になにやら別の意味を招き寄せる「意味」のような重さを持つにいたっていたことは屡々指摘されるところだ。

しかし、いずれも病を外から来る何かと捉えていることには変わりがない。ここでは「物の怪」ということになっているが、いまなら「コロナ」といっている。我々の遺伝子なんかがほとんどウイルスみたいなもので出来ていることを聞きかじっている我々は、ウイルスは自分の一部であり、動物の一部であり、両者の媒介でもあり、生態系のネットワークの間にすぎないみたいな思想にますます捕らわれているのであるが、我々の自意識がそういうところに耐えられるかどうかは分からない。案外、あいつの恨みが物の怪になったみたいな、――金やトランプがコロナを発したみたいなところに落ち着きそうで恐ろしい。

上の蜻蛉さんたちなんかは、加持祈禱をやって安心を得てから、山寺に避難して今でいう「3密」を避けるみたいな行動をしている。案外昔も合理的だったのか、と感心している場合ではない。なぜなら、こういう物忌みみたいな行動は形式化して、なんと今でもやっている人達がいるのだ。

今年の二月、私は満二年の療養生活を卒へやうとする最後の時期に、M博士の所謂試験的感冒に罹つた、これを無事に切り抜ければ胸の方は全快といふ折紙がつくわけである。
 例の海岸の発病以来、絶対に「風邪を引くこと」を禁じられてゐた窮屈な生活から、いよいよ解放される時が来たのだ。
「もう、いくら風邪を引いてもいゝ」――なんと愉快な宣告ではないか。

 ある西洋人が、日本に来て、「日本人は何時でも、みんな風邪を引いてゐる」と云つたさうである。
 なるほど、さう云へば、さうかも知れない。第一、日本人の声は大体に於て、西洋人が風邪を引いた時の声に似てゐる。
 第二に、日本人くらゐ痰を吐く人種は少い。
 第三に、劇場や音楽会や、いろいろの式場などで、日本ぐらゐ咳の聞こえるところはない。いよいよ始まるといふ前に、先づ咳払ひをして置く。一段落つくと、あゝやつと済んだといふ咳払ひをする。芝居なら、幕の開いてゐる間でも、一寸役者の白が途切れると、あつちでもこつちでも咳をする。
 私の知つてゐるある婦人は、なんでも静かにしてゐようと思ふと自然に咳が出るさうである。つまり、呼吸をこらすと咽喉がむづむづするんだらう。これなどは、生れながら風邪を引いてゐる証拠である。
 今年は私もせいぜい風邪を引かう。


――岸田國士「風邪一束」


我々がいま望んでいるのはこんなかんじの世界であろう。ワクチンや薬を発明できた安心感であるが、しかし、いったんもとのウイルスに脅かされる世界に戻ると、我々は平安時代から遠く離れていなかったことに気がつくのである。


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