★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

投我以木李

2024-03-09 23:52:35 | 文学


投我以木李
報之以瓊玖
匪報也
永以為好也


果たして、未婚の男女が果実など投げ合った投果婚と、意志でも果実でも何でもいいがお互いに投げたり受けたりする遊びとしてのキャッチボールはどちらが最初なのであろう。

どちらが最初であるにせよ、こういうやりとりは贈与であるにしては不確実である。われわれはそれをよく知っていて、最近はボランティアみたいなものが贈与とされているので、よけいそうだ。相手が投げ返せないほど弱っているときに投げるのが贈与だからである。これはあまりにも不完全なコミュニケーションであって、われわれは上の婚礼が共同体があってのものだと気付く。最近、地震のたびに、元の安心安全にもどるみたいなところに思考が流れ着いてしまうのはまあわれわれが馬鹿になる原因ではあるけれども、コミュニケーションの危機をよく知っている我々だからこその体たらくなのである。

贈与の返礼として想定されるのは、被災地にもともとあった魅力みたいなものの復興みたいなものであろうか。しかし、日本はかなり均質化してて特殊性は薄れているから、何かをアピールしようとして嘘つくことになるわけだ。そもそも愛着というのは特殊性に惹かれることではない。故郷に愛着があればそれでいいのに、その愛着を「故郷を愛する心」みたいに飜訳した馬鹿教育は最悪であった。

NHKで、この前亡くなった鳥山明が引き籠もりの漫画家志望の若者を励ましたみたいな美談が紹介されていた。一方、フランスでは一時期「ドラゴンボール」の暴力性が問題になって放映中止になったらしい。フランスの方がよほど正直だ。「ドクタースランプ」もそうだけど、暴力マンガなのである。この世界では、暴力は一種の贈与で、殴り合っているうちになぜか仲良くなってしまう。しかし、「ドラゴンボール」の世界で、案外簡単に殺されている人たちがいて、「戦闘力1」みたいなザコである。暴力を返礼として返せない人びとであった。こういう内容をすっとばして、宿敵が仲間になるみたいなことを強調してしまうことと、引き籠もりの青年を鳥山氏が励ましたみたいなエピソードは完全におなじかたちをしている。

渡邊恒雄と児玉誉士夫の対談(『われかく戦えり』)で、石原慎太郎は世渡りが上手すぎてだめ、みたいなことを児玉が言ってたけど、こういうのを左翼が言わなくなったこともだめなのだ。左右中間上下、木訥さに欠けて信用できないのだ。返礼を求めないことが世渡りの下手さであり、木訥さである。ちなみに暗殺みたいなものもそうであるが。。。。

機を見て左から右へ、国粋から極左へみたいなタイプは目立つから、彼らが馬鹿だなあというのも簡単なんだが、そのほかたくさんのいろいろな人たちがいる。結果的に、我々の世界は、ロマン主義や古典主義の対立にこだわりすぎて、上の木訥さみたいな存在を失ってゆくことになった。ロマン主義者にしても古典主義者にしても、それだけでは口先野郎に過ぎない。たしか児玉誉士夫が、戦時中、現役陸軍将校が忠霊塔を立てる運動をしてるのを見てなにを無駄なことを、と言っていた。震災の記憶を引き継ごうみたいなふわっとしているのは忠霊塔と同じなのである。行動の勇気が為されないときに、われわれは塔を建てる。果実を投げるのも忘れて。


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