
爾に塩椎神、「我、汝命の為に善き議を作さむ。」と云ひて、即ち間勝間の小船を造り、其の船に載せて、教へて曰ひけらく、「我其の船を押し流さば、差暫し往でませ。味し御路有らむ。乃ち其の道に乗りて往でまさば、魚鱗の如造れる宮室、其れ綿津見神の宮ぞ。其の神の御門に到りましなば、傍の井の上に湯津香木有らむ。故、其の木の上に坐さば、其の海神の女見て相議らむぞ。」といひき。
山幸は泣いていた。兄貴が許してくれないからである。パワハラだっ。というわけでないが、昔から我が国は、泣いてぐずる弱虫に寄り添い系の国であった。シオツチの爺神がやってきて、「よい案を考えてあげましょう」ときた。こういう餓鬼はちゃんとほっとかなだめだ。――とういうわけで、可愛い餓鬼には一人旅をさせよ、である。漂流してこいというのである。体よく追い払われた山幸であった。それも彼が苦手な海に漂流である。
それにしても、当時は人口も少ない我が国は、遭う人遭う人みんな神であって、海流に流されていってもいずれは神に当たるのであった。――しかし、これは人口の問題ではない。わたくしも故郷を出てから、人間が光っていることを知ったのである。
この前、『三島由紀夫VS東大全共闘1969-2000』というもと全共闘の総括座談会みたいな本を読んだ。最後に「人口問題」という章があって、人類のために人口をへらさにゃだめだという人と、減らさずとも、互いに殺し合うような本能をどうにかできればいいんだろうという対立がゆるやかにあった。確かに、古事記の描いている情景は、狭い国土でしかも兄弟や親子が近くにいると殺し合ってしまう、あるいは自分で変な神を生んだりして災厄を撒き散らすということであって、上の塩爺はいいとこついている。子を流してしまえばよいのである。いまだって、若者たちはよく知っている。いつまでも親とか兄弟と付き合っているから、これ以上夫や妻をつれてきて喧嘩の種を増やすわけには行かぬ、結婚はもってのほか、となるわけである。
まもなく市民は大会を開いて、十五少年推奨の盛宴を張った。そのとき市長ウィルソン氏の演説大要は左のごとくであった。
「いま十五少年諸君の行動を検するに、難に処して屈せず、事に臨んであわてず、われわれおとなといえども及びがたきものがすこぶる多い。そもそも富士男君の寛仁大度、ゴルドン君の慎重熟慮、ドノバン君の勇邁不屈、その他諸君の沈毅にして明知なる、じつに前代未聞の俊髦であります。とくに歓喜にたえざるは、十五少年諸君が心を一にして一糸みだれず、すべて連盟の規約を遵守したる一点であります。日英米仏伊印独支、八ヵ国の少年は、おのおのその国を異にし、人種を異にしておりますが、その共同精神、すなわち国籍や人種を超越した、世界人類という大きな気持ちの上に一致したということは、やがてわれわれおとなどもが、国際的の小さな感情をすてて、全世界の幸福のために一致共同しうべきことを、われわれに教えたものであります。われわれが実行せんとしてあたわざりしものを、十五少年諸君がまず実行された、これじつにおどろくべきことではありませんか。共同一致の力は、二年間の風雨と戦って、全勝を占めました。われわれは少年諸君にあたえられた、この教訓を閑却してはなりません、わたくしはいま世界平和の天使として、少年連盟を礼賛したいと思います」
――佐藤紅緑「少年連盟」
いうまでもなく、こういうえせ同盟やらグローバリズムも家族と同じなのだ。我々はこういうものの外部でしか愛を得られない。