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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

死に至る病

2022-12-19 23:32:23 | 文学


確かに今乗った下らしいから、また葉を分けて……ちょうど二、三日前、激しく雨水の落とした後の、汀が崩れて、草の根のまだ白い泥土の欠目から、楔の弛んだ、洪水の引いた天井裏見るような、横木と橋板との暗い中を見たが何もおらぬ。……顔を倒にして、捻じ向いて覗いたが、ト真赤な蟹が、ざわざわと動いたばかり。やどかりはうようよ数珠形に、其処ら暗い処に蠢いたが、声のありそうなものは形もなかった。
 手を払って、
「ははあ、岡沙魚が鳴くんだ」
 と独りで笑った。


――泉鏡花「海の死者」


大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が終わった。わたくしは大河ドラマは大概苦手で、日本のヴィルドゥングスロマンの達成に絶望していたぐらいだが、今回のは面白かった。面白かったといってもそれは、――前にも書いたかもしれないが、今時なおもしろさだと思う。言葉のつながりによる、編み目のような脚本で、現実からは大きく離れた、因果律的な物語である。これは、現実に対して、やや高をくくった姿勢でないと書けない物語である。だから、本質的には、いままでの三谷幸喜の推理小説的脚本の系統のものである。

主人公?の北条義時は小栗旬氏が演じていた。すごくうまい演技で、三浦義村の山本耕史氏もそうだが、「達人」的な俳優である。義経をやった菅田将暉氏の方が変な俳優で、パッションが技術を曲げてしまう。今回の小栗旬氏の演技で、というか脚本から演出すべてで面白かったのは、苦悩とか秘めた愛とかではなく、虚無の存在をしめしたことであった。生きながら地獄に墜ちてる義時にはいわば生きた感情がない。それが息子や家への愛に支えられていても虚無は虚無のままで存在する。最後、義時が「俗物だ」と批判した運慶がつくったの義時の像は、餓鬼風な聖天像で、いわばそれは人間的過ぎるんじゃないかと思うほどだ。かれはそれほど人間として崩壊してはおらず、虚無を抱えているだけなのである。おそらく、人殺しを自分の意思以外の動機によって行い、最初の妻が死んだ時点で義時は絶望して精神的に死んでいる。その後の鎌倉のためみたいな目標は方便に過ぎない。

絶望というのは非常にやっかいで、スターウォーズや大河で描かれた『闇落ち』というのは絶望のことだとおもう。それを大概「大きな悲しみ」と人は解してしまい、優しさや良心で治癒されるものと思ってしまいがちだが、ぜんぜんそうじゃない。それが闇=虚無を生むのである。それをわかっていない者が、人に寄り添い無神経な言葉をまき散らす。

北条政子が「ひどいことをしてきた義時だが彼はまじめなんです」とか言ってたが、あれはある種のアイヒマンだといっているようなもので(アイヒマンの意図がどこまであったかの論争は一応知ってるが、それは置いといて)、鎌倉時代だと言うことを抜いた場合、「だから」だめなんだということになると思われる。とりあえず、地獄に行ってないのは大姫ぐらいだとおもう。義高殿は、生きた蝉ではなく蝉の抜け殻集めが趣味ということで私の独断により極楽往生――。

――とはいえ、我々の世界には他の虚無もある。今起こっているのは右傾化みたいな内面的で感情の上での動的なものではなく、無知と思い上がりによる人間に対する蔑視である。転向の余地がないので絶望的である。本人たちには意識しない絶望だが、それは虚無である。文章の読解力みたいなものも、蔑視があるものだから成長するはずがない。これは客観=他人の目みたいな図式で考えていることとも関係がある。要するに自分は虚無だから、主観性すら本当は存在していない。ひでえな、西田幾多郎の初期からやり直せ。

斯の如く知と愛とは同一の精神作用である。それで物を知るにはこれを愛せねばならず、物を愛するのはこれを知らねばならぬ。数学者は自己を棄てゝ数理を愛し数理其者と一致するが故に、能く数理を明にすることができるのである。美術家は能く自然を愛し、自然に一致し、自己を自然の中に没することに由りて甫めて自然の真を看破し得るのである。また一方より考えて見れば、我はわが友を知るが故にこれを愛するのである。境遇を同じうし思想趣味を同じうし、相理会するいよいよ深ければ深い程同情は益々濃かになる訳である。しかし愛は知の結果、知は愛の結果というように、この両作用を分けて考えては未だ愛と知の真相を得た者ではない。知は愛、愛は知である。

――「知と愛」(『善の研究』)


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