
比吉。原筮元永貞。无咎。不寧方來。後夫凶。
比(した)しまず、乱を好む連中も懐く。遅れてやってくるやつは凶。
四書五経を延々読んでみないと我々にほんと独特な呪縛があったことを経験できないにちがいない。書物同士における緩やかな内容の重複による相殺と、形式と描かれた行為の広がりの関係がおもしろくて、――同時にその束縛と自由のあり方自体が我々を縛り付けるものである。天皇制と戦うみたいなのは、どこか風車と戦うところがある。
確かに、國文學は、古典も近代文学も手を携えて、戦争が終わってもずるがしこく生き延びた部分はあったのだが、例えば個人に注目してみると、そう簡単な問題でないことはあきらかだと思う。例えば、戦争末期の『批評』なんかには、山本健吉とか中村光夫とかにまじって、平野仁啓のような古代文学の人が混じっていて、――戦争が続いていたら、このような人はどういうものを書き続けることになったであろうか。
坂口安吾の勇気と才覚によって生じた「堕落論」は、一体「青春論」の延長なのか、そうでないのか。わたしはよく分からないが、――安吾が堕落なんかを言わなきゃ、もうすこし勇気を持続できたものもいたはずである。堕落するつもりがない人々を安吾は見限ったのである。そういえば、最近の「だめライフ」のみなさんも坂口安吾の法則に従って堕落に徹するには弱すぎるという所謂人間的な[…]
三菱とK大で「総力戦」とか言うてる記事をみたが、いつも「堕落」しながら歴史に復帰する輩は、大衆よりも先に、こういう馬鹿たちなのである。
そういえば、わたしは小4ぐらいのとき、橇で坂を滑降して電信柱に激突して派手に流血していらい、加速するとか言っている大人は確実にわしの小4のときより頭が悪いと思っている。世の中の動きにはひとりの人間やひとつの集団が操作でける単独のエンジンがあるわけじゃなく、加速したときには自然法則に従った下り坂なのである。で、電信柱にぶつからないためには運動神経も頭も必要である。我々は頭がよいと加速すると考えるくらい頭が悪くなっている。遅れてやってくる奴は凶ではない。