夫挙鰭濫觴。不曽見千里之鯤。翥翮籓籬。何能知有九萬之鵬。是故。海上頑人。疑如魚木。山頭愚士。恠如木魚。則知。非難朱明。無人見豪末。非子野聡。何能別鍾響。咨乎。見与不見。愚与不愚。何其遙隔哉。吾聞汝等論。譬如鏤氷書水。有労無益。何其劣哉。
吉野家のお偉いさんが、早稲田でなにか不適切な比喩表現をしたとかで騒ぎになっていたが、――むかしからの古典の教養はこういう下品な比喩表現を禁ずるためにも必要なのかも知れなかった。一方では、表現に対する過剰な「紋切り型」への要求があり、従業員たちや学生や教員たちが何の味も閃きもない言葉を吐くことを要求され、他方で、下品なエネルギッシュな人間たちが怖ろしい表現で人を喜ばしたり脅迫し続けているのは興味深い現象である。そこには「文化的な紋切り型」の消滅がある。そう言っておけば、適切に説得的でありややつまらなくはあるが人から文句はでないそれが、「文化的な紋切り型」である。これが消滅すると、動物的なバカが弱い者に吠え続け、弱い者はなんのパッションもない言葉しか許されないのである。
プロレタリア文学あたりは、下品なパッションを支配階級から奪うために過剰とわかる比喩表現を用いた。
二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛が背のびをしたように延びて、海を抱え込んでいる函館の街を見ていた。――漁夫は指元まで吸いつくした煙草を唾と一緒に捨てた。巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹をすれずれに落ちて行った。彼は身体一杯酒臭かった。
赤い太鼓腹を巾広く浮かばしている汽船や、積荷最中らしく海の中から片袖をグイと引張られてでもいるように、思いッ切り片側に傾いているのや、黄色い、太い煙突、大きな鈴のようなヴイ、南京虫のように船と船の間をせわしく縫っているランチ、寒々とざわめいている油煙やパン屑や腐った果物の浮いている何か特別な織物のような波……。風の工合で煙が波とすれずれになびいて、ムッとする石炭の匂いを送った。ウインチのガラガラという音が、時々波を伝って直接に響いてきた。
――「蟹工船」
ただ、大衆社会の中では、こういうパッションは、つねに権力のそれとしてすり替わってしまう。吉野家のお偉いさんを、支配階級だと思っている人間など居ない。われわれとおなじく閉じた大衆である。それが自分を強者と認識すると吠えてしまうだけである。
上の仮名乞児なんか、涙を流し悲しみを含んで諭しているせりふが上の様なのだ。つまり下品に簡単に言うと、視野の狭い者と愚者は、視野の広いものと愚かでない者と何の共通点もないのでどうしようもないです、と言っているだけなのである。昭和風に言うと、「馬鹿は死ななきゃ治らない」である。それを、小魚は大魚を見ることはない、小鳥は鵬を理解出来ない、漁師は山にある大魚の様な大樹を知らぬ、樵はその大樹の様な魚を知らぬ、となかなかしゃれている。のみならず、あなたたちは氷に彫刻をしたり、水面に絵を描く様なことをしているようにみえますね、ともはや「馬鹿は死ななきゃ治らない」どころではなく、ちょいと目を覚ませばよいかも、と思わせるところがある。
もっとも、仮名乞児が説得しているのは、儒教先生と道教先生であって、――今風にいえば、学校の先生と貧乏アーチストみたいな人たちなのである。それ以下の早稲田で滑り散らかした人に言っているのではなかった。