★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

復活と自由

2022-04-24 23:57:39 | 思想


隠士大驚曰。何謂地獄天堂乎。何為煩持衆物乎。仮名曰。作業不善。牛頭馬頭。自然涌出。報以辛苦。用心苟善。金閣銀閣。倏忽翔聚。授以甘薬。改心已難耳。何有決定天獄乎。余前。如汝迷疑。但頃日間。適遇良師之教。既醒前生之醉。

行いが悪い場合、自然に出現するのは牛の頭や馬の頭をした鬼であり、苦しみを与える。が、心の用い方が良ければ金や銀の宮殿が飛んでくるのであり、甘露を授けてくれる。心を改めることだけが重要であり、天国とか地獄とかがきまっている訳じゃない。むしろ心に沿って招来するものだ。自分もあなた方と同じく天国や地獄を外部にあるものとして右往左往していたのだが、良い先生に出会って酔いを覚ましたのである。

だからといって、天国や地獄は気分の問題なのではない。実際、牛や馬の頭の鬼が飛んできたり、金閣銀閣が降ってくる勢いの実在物である。

この心がけやら心の用い方というのは、一種の復活信仰であると思うのである。今日、大河ドラマで木曽義仲が討ち死にしていたが、巴御前とともに、「平家物語」で明らかに気合いを入れて描かれている二人である。この気合いも心の用い方であって、これが何回も義仲と巴御前を復活させることになるのである。この二人の話は、全国津々浦々にひろがり、よくわからんがいろいろなところに義仲や巴の伝説が出現することになる。義仲が育ったのはほんとうに日義村だったのかはわからない。小木曽の方だったのかも知れないし、もっと松本寄りの地域だったのかも知れない。しかし、彼が木曽を名乗る限り、日義村は明治になってから実在してしまったし、巴淵なんかもいつ頃からか実在している。富山にも巴が死んだところが残っている。そもそも巴は御前という単語まで引き寄せてしまうわけで、こうなると全国にいたであろう御前(ごぜ)たちもみんな巴御前みたいなものである。

賴朝が冷血漢、義経がサイコパス、みたいな認識はもう平家物語にあるわけで、それが今日の大河ドラマまで繰り返されている。これは復活である。これはよくわからんが日本武尊のエピソードから繰り返されている、激しく飛び出したやつが跳ね返って死ぬパターンで、神話みたいなものである。吾々はこのパターンからいまも心理的に出られない、輪廻のなかにある。

これに対して、この時代にひたすら日記をつけていた九条兼実は、なにかこういう輪廻に抵抗していた様な気がする。輪廻は渦でありそこに流されて行くものも多様で一見歴史に見える。これに対して、玉葉に書かれている有職故実なんかは、そういうあいまいな渦を許さない。正確な反復を要求する。これはある種の自由への道である。

幾千幾万。この反復に於て彼の手は全き自由をかち得る。その自由さから生れ出づる凡ての創造。私は胸を躍らせつつ、その不思議な業を眺める。彼は彼の手に信じ入つてゐるではないか。そこには少しの狐疑だにない。あの驚くべき筆の走り、形の勢ひ、あの自然な奔放な味はひ。既に彼が手を用ゐてゐるのではなく、何者かがそれを動かしてゐるのである。だから自然の美が生れないわけにはゆかぬ。多量な製作は必然、美しき器たる運命を受ける。

――柳宗悦「雑器の美」