★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

学びの迷い道

2022-04-21 23:12:13 | 思想


吾当為汝等。略述綱目。宜鑒秦王顕偽之鏡。早改葉公。懼真之迷。倶醒触象之醉。並学師吼之道。儒童迦葉。並此吾朋。愍汝冥昧。吾師先遣。然依機劣。浅示二儀之膚。未談十世之理。而各執殊途。争挙旗皷。豈不迷哉。

曰く、始皇帝が持っていた嘘をついている人間を映し出す鏡のこと、龍の絵を好んで描いていた葉公が実際の龍に仰天して逃げたことを思え、と。こういうエピソードは真実に向き合わずに迷っている人間を戒めるからであろう。われわれは屡々自らの真実の姿から遁走するのだが、思想や芸術のかたちでもその遁走を表現して糊塗してしまうことがある。それは盲人が象にふれてあれこれ言うようなものである。佛陀の教えはむしろ獅子の吠える声のようなもので、遁走としての虚偽を許さないのである。

ここまででも十分であるようなきがするが、このあとが問題である。曰く、佛陀が東につかわした儒童と迦葉は、東の人々が愚かだったので、二儀(陰と陽)の教えを仮に説いたが、十世之理を教えなかっただけである。であるから、未修のおまえたちが争ってもしかたがない。お前たちは単に迷ってるだけだ、と。

確かに、ここで空海はある種の「勉強の哲学」を述べている。勉強においてはいろいろな矛盾や葛藤に苛まれ、吾々は勉強のせいで迷った様に感じる。しかしそれを、メンタルとかなにやらで説明しているうちはだめで、勉強そのものによって解決するのが一番近道なのである。

われわれは、中途半端な学びの途中で「社会」とやらにでてしまうので、矛盾や葛藤を社会や自分の弱さのせいにする癖を大きく太らせてしまう。ますます迷いの道に入るだけである。そこででてくるのが社会道徳などである。

「真実の母さんてば……二郎さん、お前さんはどうかしていますね、きっと狐にばかされて此処へ来たのですよ。」
と、後は何かぶつぶつと口の中で独言をいうて、草藪の中を分けて行きます。二郎は悲しくなって、涙ぐんで黙って後についてまいりました。夜嵐は杉の木の梢に鳴り渡って、泣くように悲しい音を出す胡弓は、たえだえに聞かれるのであります。
「二郎ちゃん!」と一声何処かで声がする。二郎は歩みを止めて佇ずみました。誰れか自分の名を呼んだなと思いましたけれど、それっきり聞こえませんでした。余程来たかと思う時分に杉林の奥の方で太鼓の音がまたしても聞こえます。振り向くと、またしても、紅、青、紫の燈火が美しう輝やいていて、お祭りの賑かな景色が見えて、人通りの混雑ている中に此方を向いて手招きをする女はたしかに自分の死んだ母親の顔であります。
「お母さん!」と、思い存分に叫きますと、その声は木精にひびいて確かに母さんの耳にも聞えたのです。乞食は不意に後を向いて「やかましい。」と言いざまに持っている胡弓で二郎を力存分に打ちました。胡弓の柄はぽっきりと三つばかりに折れたかと思うと、物凄い夜嵐の音も、怒れる乞食の姿も美しいお祭の景色も総べて消えてしまって、いつしか二郎は月明の下に我が家の前に立っていたのであります。
 太郎は途中からよして、自分よりは疾くに家に帰っていて、二郎の帰るのを待ちつつ母や妹と心配しながら、果物などを食べていたところであります。母親だけは果物も何も食べんで寂しそうな顔付をしていました。
 これから兄弟とも今の母親の言うことをきいて孝行を尽しまして、母も益々二人を愛したそうであります。


――小川未明「迷い路」


わたしは、二郎は自らがなぜ母親を見たのか、もう少し考えるべきだったと思う。「真実の母さん」はほんとにあるのかも知れない。儒教は、――孝行はそれを断念するところに生じている。