★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

住まいと人

2021-05-24 22:47:05 | 文学


後徳大寺大臣の、寝殿に鳶ゐさせじとて縄をはられたりけるを、西行が見て、「鳶のゐたらんは、何かはくるしかるべき。此の殿の御心、さばかりにこそ」とて、その後は参らざりけると聞き侍るに、綾小路宮のおはします小坂殿の棟に、いつぞや縄をひかれたりしかば、かのためし思ひいでられ侍りしに、誠や、「烏のむれゐて池の蛙をとりければ、御覧じて悲しませ給ひてなん」と人の語りしこそ、さてはいみじくこそと覚えしか。徳大寺にもいかなる故か侍りけん。

家の論評をしていたと思ったら、さりげなく西行の悪口に飛翔する兼好法師。こういう素早さは、長明にはないものであろう。長明は、家も都もすぐに川のようなものに抽象的になってしまうので、こういうどうでもいい細かいところがみえないのであろう。しかし、火や川や水が希臘のアルケーのようにみてくる長明の方がまじめで好感が持てる。兼好法師は、正殿に縄をはってるのにも理由があるにちがいない、西行は鳶の気持ちしか分からなかったが宮様は烏が池の蛙を捕るのをかわいそうと思ったのだ、――住まいの論評はむずかしいんだ事情があることがあるよね、みたいなことを言っているが、そりゃまあそうなんだろうけれども、だったら、

よき人の、のどやかに住みなしたる所は、さし入りたる月の色も、一きはしみじみと見ゆるぞかし。今めかしくきららかならねど、木だちものふりて、わざとならぬ庭の草も心あるさまに、簀子・透垣のたよりをかしく、うちある調度も昔覚えてやすらかなるこそ、心にくしと見ゆれ。

みたいな情景もちゃんと疑った方がよくはないであろうか。この情景なんか、わたくしが大学院生の頃棲んでいた下宿に極めて似ている。だらしない男も風景としてみればいい感じに見えてくることはありうるのである。

郡司ペギオ幸夫氏の『やってくる』の最初の方には、いましろたかしの漫画に出てくるような情景が、氏の内側から描き出されていて面白い。兼好法師はそれに比べて常に外側から見ている。

「神の御名は讃むべきかな……」
 さう云ふ語がまだ完らない中に、蛇の頭がぶつけるやうにのびたかと思ふと、この雄辯なる蛙は、見る間にその口に啣へられた。
「からら、大変だ。」
「ころろ、大変だ。」
「大変だ、からら、ころろ。」
 池中の蛙が驚いてわめいてる中に、蛇は蛙を啣へた儘、芦の中へかくれてしまつた。後の騒ぎは、恐らくこの池の開闢以来未嘗なかつた事であらう。自分にはその中で、年の若い蛙が、泣き声を出しながら、かう云つてゐるのが聞えた。
「水も艸木も、虫も土も、空も太陽も、みんな我々蛙の為にある。では、蛇はどうしたのだ。蛇も我々の為にあるのか。」
「さうだ。蛇も我々蛙の為にある。蛇が食はなかつたら、蛙はふえるのに相違ない。ふえれば、池が、――世界が必狭くなる。だから、蛇が我々蛙を食ひに来るのである。食はれた蛙は、多数の幸福の為に捧げられた犠牲だと思ふがいい。さうだ。蛇も我々蛙の為にある。世界にありとあらゆる物は、悉蛙の為にあるのだ。神の御名は讃む可きかな。」
 これが、自分の聞いた、年よりらしい蛙の答である。


――芥川龍之介「蛙」


内側から描くのはなかなか難しく、今度は外側から見ることが高いハードルに生長する。芥川龍之介はそこんとこばかり気になっていた。