★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

鏡の回帰

2021-05-12 23:40:28 | 文学


ののしり満ちて下りぬる後、こよなうつれづれなれど、いといたう遠きほどならずと聞けば、さきざきのように心ぼそくなどはおぼえであるに、送りの人々、またの日かへりて、「いみじうきらきらしうて下りぬ。」などいひて、「この暁にいみじう大きなる人だまのたちて、京ざまへなむ来ぬる」と語れど、供の人などのにこそと思ふ。ゆゆしきさまに思ひだによらむやは。[…]九月二十五日よりわづらひいでて、十月五日に、夢のやうに見ないて思ふ心地、世の中にまた類あることとも覚えず。初瀬に鏡奉りしに、伏しまろび、泣きたる影の見えけむは、これにこそはありけれ。うれしげなりけむ影は、来し方もなかりき。今行く末は、あべいやうもなし。

人魂や鏡にうつった号泣する人が、夫の死となんの関係があるのかと思うが、――関係なく起こっているから、むしろ結びつけずにはいられないのである。不幸はなんの前触れもなく、着々と因子を蓄えている。それとは関係なく、意識が理想や文化にとりつかれる。

そこで奥さんも絵本を渡したり、ハモニカをあてがつたり、いろいろ退屈させない心配をしたが、とうとうしまひに懐鏡を持たせて置くと、意外にも道中おとなしく坐つてゐる事実を発見した。千枝ちやんはその鏡を覗きこんで、白粉を直したり、髪を掻いたり、或は又わざと顔をしかめて見り、鏡の中の自分を相手にして、何時までも遊んでゐるからである。
 奥さんはかう鏡を渡した因縁を説明して、「やつぱり子供ですわね。鏡さへ見てゐれば、それでもう何も忘れてゐられるんですから。」とつけ加へた。
 自分は刹那の間、この奥さんに軽い悪意を働かせた。さうして思はず笑ひながら、こんな事を云つて冷評した。
「あなただつて鏡さへ見てゐれば、それでもう何も忘れてゐられるんぢやありませんか。千枝ちやんと違ふのは、退屈なのが汽車の中と世の中だけの差別ですよ。」


――芥川龍之介「鏡――東京小品」


退屈なものを自分の外部に求めていると、とつぜん、鏡の中に別の怖ろしいものが映り込んでくる。それが我々の自我の世界である。更級日記のお嬢さんのほうが、鏡のおかげで最初から未来に不幸があるぐらいのことはうすうす覚悟していたのではないか。芥川龍之介の方が、不幸が連続してくると耐えられなくなってしまう。――そうであった、更級日記のお嬢さんは、僧から鏡のことをきいたわけで、自分で見たわけではなかった。これがよかったのではなかろうか?

小林秀雄をはじめとする鏡の地獄の告発を読むまでもなく、われわれはあまりに鏡に拘っていると気が狂ってしまうのである。