★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「東路よりは近きやう」考

2021-05-11 23:45:11 | 文学


年はややさだ過ぎ行くに、若々しきやうなるも、つきなう覚えならるるうちに、身の病いと重くなりて、心に任せて物詣でなどせしこともえせずなりたれば、わくらばの立ちいでも絶えて、長らふべき心地もせぬままに、幼き人々を、いかにもいかにもわがあらむ世に見おくこともがなと、伏し起き思ひ嘆き、頼む人の喜びのほどを心もとなく待ち嘆かるるに、秋になりて待ちいでたるやうなれど、思ひしにはあらず、いと本意なく口惜し。親のをりよりたち返りつつ見し東路よりは近きやうに聞こゆれば、いかがはせむにて、ほどもなく、下るべきことども急ぐに、門出は女なる人の新しく渡りたる所に、八月十余日にす。

気がついてみたら、更級日記のお嬢さんも五〇であった。無茶な激務とは無縁だったのか、当時としては長生きであることだ。それはともかく、旦那さまの赴任先がきまったのだ。

ここで、東路よりは近いらしいぞというのは、長野県である。ここになんの感慨もなく、京都に近い遠いみたいな感覚なのは、いまどきの思い上がりたる東京人といっしょではないかっ。この時代と現在は、こういう点において非常に似通っている。

今日、中沢新一氏の『アースダイバー 神社編』を楽しく読んだが、かなりの部分を長野県の考察にあてている。安曇野の人々は、すごく単純化して言えば、海洋民族?の方々が内陸まで遡ってきた結果であったという。で、穂高なんぞを崇高な一種の観念として見出すのである。その結果、岩波や筑摩の創業者が、穂高を「神奈備」とみるような観念文化の帰趨として出現するのだ、という。

本当かどうかわからんが、気分としてはよくわかる。わたくしは、安曇野みたいな崇高な気分の土地とはちょっと違う場所の生まれだから、観念的に壮大になれないところがあるが、――そういうことだったか。

中沢氏は、上高地が「神合地」だったという説を取りあげている。気分としてはわかる。山を分け入っていった先に突然小さい盆地が開けている。御嶽の全容が姿を現す開田高原なんかも木曽の山奥の向こう側に有り、そんな気分をだしている。「分け入っても分け入っても青い山」(種田山頭火)とは限らないのである。

そういえば、清水真木氏の『新・風景論』は、地平としてあったものが驚かされる実景?のあらわれた衝撃で、いまま・ここの風景として創作させるといった議論を展開されていた様に思う。たしかに、その崇高な山は最初からアルプスや御嶽を見て育った人ではなく、旅路の果ての遭遇によって見出されたのかも知れない。それは御岳や富士でなくともよく、わたくしなんぞも、はじめて新潟に旅行したとき、電車の中で見た妙高山なんかにも崇高さを感じたものである。

中沢氏は、三九郞(どんどやき)が、少年少女の性の奔放さを扱った道祖神系の祭りであるとみなしてもいるのだが、――崇高さと性の過激さを併せもっているのが安曇野の文化だとすると、松本平からアルプスに登って性を感じてる北杜夫なんかはまさにそういう存在だったといえる。下界に降りてくると病んじゃうわけだけど……

諏訪の御柱も実際に見たことないから、一回みに行ってみたいものだ。木曽町のみこしまくりも神木を転がしている様なもんなので、御柱と似ている気がするが、実際に見てみるとかなり違うものかも知れない。毎年みこしまくりの大騒ぎを近所で体験した身としては、みこしを転がすときのゴッという不気味な地面との衝突音が印象的だったが、舗装される前はそれほど音はしてなかったとも誰かに聞いたことがある。もっと畑を耕すときの音みたいな感じだったのかもしれないわけである。

――以上は妄想であるが、更級日記のお嬢さんはいろいろな風景に出会っているにもかかわらず、それは観念の生成みたいな現場とは無縁であった様にみえる。それは単純に和歌や物語のせいとも限らないのではなかろうか。