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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

垣間見と覗き

2020-01-25 17:48:39 | 文学


御膳のをりになりて、御髮上まゐりて、蔵人ども、御まかなひの髮上げて、まゐらする程は、隔てたりつる御屏風も押しあけつれば、垣間見の人、隠れ蓑取られたる心地して、あかずわびしければ、御簾と几帳との中にて、柱のとよりぞ見奉る。衣の裾、裳などは、御簾の外に皆押し出だされたれば、殿、端の方より御覧じいだして、「あれは誰そや。かの御簾の間より見ゆるは」と、咎めさせたまふに、「少納言が、物ゆかしがりて侍るならむ」と申させ給へば、「あなはづかし。かれは古き得意を。いとにくさげなる娘ども持たりともこそ見侍れ」などのたまふ御けしき、いとしたり顔なり。


土田耕平に「のぞき眼鏡」という話があって、村町で「のぞき眼鏡」でみた異人の少女がその夜の夢に出てくる。

やつぱり昼間見たときのまゝ、小腰をかゞめて、花を摘まうとしてをります。
「あれ、まだあんなことをしてゐる。馬鹿だな。」
 太郎さんはいひました。女の子は、太郎さんの方をふりむいて、
「これ摘んでもかまはないの。」
と日本のことばでいひました。
「きまつてゐるぢやないか。」
 太郎さんがいひますと、女の子は嬉しさうにしてその白い花を摘みとりました。とあたりは急にうすぐらくなつて、深い霧の中につゝまれたやうにおもはれました。


覗き眼鏡のなかの人物たちは昼間は動かない。夢の中で動き出す。昔、怪獣特撮がすごく流行したが、これはみんなが5時にテレビにかじりついていたせいばかりではない。怪獣図鑑とか怪獣消しゴムのような動かない物が身近にあったことが重要である。この前、古本屋にあった「ウルトラ何とか図鑑」を覗いてみたら、テレビで動いている怪獣よりも非常に芸術的にシーンが切り取られていることがわかった。子どもは夢の中で一段上のレベルの芸術と出会っていたのであろう。

その点、清少納言の世界が非常に現実的な平面のなかで行われているのは注目すべきだと思う。垣間見しようとすると自分の衣装がはみ出てだれかに見られる。これが西田幾多郎ではないが「自己が自己の奥底を見る」(『一般者の自覚的体系』)みたいなキツイ状態を避ける一方で、如何に衣装を見せるかみたいな世界へ行きがちである。

土田の話は、上の夢の後があって、見世物小屋のあとに行ってみると

紙くづや蜜柑の皮がちらばつてゐるきりでした

というわけで、まさに「夢」を夢として押し上げているのであるが、いずれ、この紙くずや蜜柑の皮も夢の中にでてくるのである。(ちなみに土田耕平は不眠症に苦しんでいた。)――世界の全体とは何処にあるのか。かくして、この問に漂着する人間が、土田のようなタイプに多いのか、清少納言のようなタイプに多いのか。