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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

あさましきもの――ゴ★クズと小★

2020-01-16 19:04:58 | 文学


あさましきもの。刺櫛すりてみがくほどに、ものにつきさへて折りたる心地。
車のうちかへりたる。
さるおほのかなるものは、所せくやあらむと思ひしに、ただ夢の心地してあさましうあへなし。
人のためにはづかしうあしきことを、つつみもなくいひゐたる。
かならず来なむと思ふ人を、夜一夜おきあかし待ちて、暁がたに、いささかうち忘れて寝入りにけるに、烏のいとちかくかかとなくに、うち見上げたれば、昼になりにける、いみじうあさまし。
見すまじき人に、外へ持ていく文見せたる。むげにしらず見ぬことを、人のさしむかひて、あらがはすべくもあらずいひたる。
物うちこぼしたる心地、いとあさまし。


現在使われている「あさましい」とはかなり違っているように思う。今はあさましいといえば、金をちらつかせながら物事を強制しようとする**とか、既成事実をつくっておいて物事をすすめようとするゴミ◎ズとかに使う言葉である。

私は金貸などと云ふ賤い家業が大嫌なのです。人を悩めて己を肥す――浅ましい家業です!」
身を顫はして彼は涙に掻昏れたり。母は居久らぬまでに惑へるなり。
「親を過すほどの芸も無くて、生意気な事ばかり言つて実は面目も無いのです。然し不自由を辛抱してさへ下されば、両親ぐらゐに乾い思はきつと為せませんから、破屋でも可いから親子三人一所に暮して、人に後指を差れず、罪も作らず、怨も受けずに、清く暮したいぢやありませんか。世の中は貨が有つたから、それで可い訳のものぢやありませんよ。まして非道をして拵へた貨、そんな貨が何の頼になるものですか、必ず悪銭身に附かずです。無理に仕上げた身上は一代持たずに滅びます。因果の報う例は恐るべきものだから、一日でも早くこんな家業は廃めるに越した事はありません。噫、末が見えてゐるのに、情無い事ですなあ!」


むろん「金色夜叉」のお人は、遠慮しているに過ぎない。家業ではなく、その人が浅ましかっただけであるが、バカ相手にはこうでも言わないと話が通じないのだ。尾崎紅葉というのは肝心なところで話を分かりやすくしすぎるところがあるのではあるまいか。

「かならず来なむと思ふ人を、夜一夜おきあかし待ちて、暁がたに、いささかうち忘れて寝入りにけるに、烏のいとちかくかかとなくに、うち見上げたれば、昼になりにける、いみじうあさまし。」こういう状態を牛車がひっくりかえったり水をこぼしたりすることと同列に並べているのがすばらしいのである。清少納言なら、「金色夜叉」のトラブルなど、三つの小石がぶつかった話として書いてしまうだろう。

「金剛石!」
「うむ、金剛石だ」
「金剛石??」
「成程金剛石!」
「まあ、金剛石よ」
「あれが金剛石?」
「見給へ、金剛石」
「あら、まあ金剛石??」
「可感い金剛石」
「可恐い光るのね、金剛石」
「三百円の金剛石」


尾崎紅葉はさすがに分かっているではないか。この会話が「金色夜叉」のクライマックスだ。男子が女子を蹴っているからといってこのドラマの銅像がどうにかなるとかいう話を聞いたことがある。当然である。しかし、石ころなら蹴っていいはずだ。そういえば、最近は、子どもが石を蹴って遊んでいるのを見ない。この体たらくでは、◎▼■▼には負けてしまう。柔らかいことが多いので……。