
わかかぐや 雪のしら髪も うちとけて もとのいろなる 相生の松 年ふりて けふあひの生の 松こそめでたかりけれ
高砂もどきの謡をうなりながら襖の裏から出てきたのは、信乃以下の四犬士。
丁田町進らとの戦いでヤス平並びに息子の力二郎と尺八に助けられる四犬士であったが、息子たちは落命。この息子たち、ヤス平が音音(おとね)さんと婚前交渉して出現したお方たち。この出現でヤスは仕えていた犬山道節の父から勘当を食らっていたのであった。音音さんは息子の嫁たちと道節をかくまっていた。で、嫁たちが息子たちをつれて帰ってくるのであるが、亡霊であった。しばらくすると、ヤス平が二人の首を持って帰ってきた(うわぁ)。
道節は、それをみて、ヤス平と音音にお前たち正式に結婚していいぞと言ったのである。そこで、「わかかぐや~」である。ヤスと音は四犬士の仲人を固辞しながら主人の命令なので断れない。
二人の息子の首が余りにもかわいそうであるが、こういうやり方は、案外現実でも起こっている。相手が弱っているところに、飴玉を出して手下にするようなやり方である。大人の世界はきたないねえ……
四犬士は、二人の生首に向かって「恩を謝し、生る人にものいふごとく」であった。
怖いわっ
二人の嫁は、
酌にもえ堪えず、頭を低てうち泣くめり
そりゃそうですよ……。
まだちゃんと読んでいないが、ポール・ブルームの『反共感論』は、人が他人に過剰に共感すると碌なことはないという事態を力説している。わたくしは、源氏にも信乃にも義仲にもまったく共感できない。ここでも、二人の嫁に共感しようとしてみたが、生首の映像がちらついてそれどころではなかった。確かにブルームの言いたいことはわかるのである。多くの人間が、傍観者のくせに当事者面して他人を貶めている。共感と怒りは近い位置にあり、感情としては繋がっているだけではなく、同一物であることもある。
考えてみると、二人の嫁はなぜただ泣くだけなのであろうか。彼らは誰かに共感している必要があまりないからなのではなかろうか。四犬士や道節、ヤス平、音音は、お互いに感情を交えなければならない立場にあり、敵への怒りと共感を強いられている。彼らは、結婚でも戦闘でもいいが、その共感の不安定をいずれ行為で埋めなければならない。
しかし、大石先生がただ泣いていて、「戦争責任」の自覚がないように、――その状態が全くもって良しとは言えないと思うのである。
わたくしは、皇后でもオリンピック選手でも、何でも、――人前で泣く人間をさしあたり信用しない。共感ばかりする人間はさしあたり軽蔑する。