
忽地暁て莞尓と笑み、「此彼思ひあはすれば、彼犬山道節も、終にはわが同盟の人となるべき因縁あらん。さるにてもわが玉を、秘おきたりし護身嚢は、彼が腰刀にからみ取られつ、そが肉身より出たる玉は、思はずわが手に入りし事、竒異とやいはん、微妙とやせん、怪しといふもあまりあり。
ニヤニヤ笑ってんじゃないよ、と言いたいが、とにかく、額蔵と道節はたかが刀をめぐって激突。ここでどちらかが死んでは話にならないので、道節が火遁の術で逃げてしまう。その代わりに何故か玉を交換。確かに、「竒異とやいはん、微妙とやせん、怪しといふもあまりあり」である。がっ、あり得ないことではないから、大げさすぎる。たとえば、「たけくらべ」の美登利の初潮か何かの場面で「我を我とも思われ」ない様子を「竒異とやいはん、微妙とやせん、怪しといふもあまりあり」なんとか言ってしまったら、美登利の恋人?であり坊主の卵である信如までがキリスト教に改宗したりしかねない。焦って呆然としているのは美登利のほうであって、額蔵は本心では「へえ不思議なもんだ」ぐらいが関の山だ。物語というのはまったく嘘が混じることであるなあ。
凡ての職業を見渡した後、彼の眼は漂泊者の上に来て、そこで留まった。彼は明らかに自分の影を、犬と人の境を迷う乞食の群の中に見出した。生活の堕落は精神の自由を殺す点に於て彼の尤も苦痛とする所であった。彼は自分の肉体に、あらゆる醜穢を塗り付けた後、自分の心の状態が如何に落魄するだろうと考えて、ぞっと身振をした。
――漱石「それから」
代助は犬と人の間を発見した。そういえば、「尤」という字は、人にも犬にも似ている。漱石のなかには、八犬伝的な面白がりで喜ぶ心がかなりあったと思うが、漱石は文字の向こう側に心の不安定さをつねに観ていたようだ。そして肉体の向こう側にも心の不安定さがある。わたくしは、「肉体」に「あらゆる醜穢を塗り付け」るといった感覚が非常に趣味が悪いと同時になかなかだとおもうのである。われわれは、こんなことも出来ないほど勇気がなくなっているからである。
いやになってしまった活動写真を、おしまいまで、見ている勇気。
――太宰治「生きて行く力」(「碧眼托鉢――馬をさへ眺むる雪の朝かな――」)
我々の周辺にはこんな勇気ばっかり……