
わたくしも國文学徒の端くれとして、高松に赴任したときに、屋島の古戦場跡をさっそく観に行った。上は、那須与一が扇を射るときに踏ん張った石とされている。
与一目を塞いで、南無八幡大菩薩別しては我国の神明日光権現宇都宮那須湯泉大明神願はくはあの扇の真中射させて賜ばせ給へ、射損ずるほどならば弓切り折り自害して人に二度面を向くべからず、今一度本国へ迎へんと思し召さばこの矢外させ給ふな、と心の内に祈念して目を見開いたれば風少し吹き弱つて扇も射よげにぞなりにけれ、与一鏑を取つて番ひよつ引いてひやうと放つ
義経はたぶん精神的にちょっとおかしい人で、自分の思いつきを面白いと思い始めると全く他の可能性が見えなくなる、やばい人である。射手に選ばれてしまった与一は、そんなの無理です、と言ったが、義経は病気だから分からない。与一はだから、思いつく限りの神仏を動員するのである。もうやけくそである。しかし、なんだかやけくその時には何かが起こる。以前、地鎮祭に出てたときに、わたくしはストレスと何かでまったく声が出ない状態にあった。にもかかわらず、人工の小山を鍬みたいなので崩しながら「えいえい」みたいな声を出さなければならないのだ。わたくしも南無八幡菩薩あたりに願って鍬を振り下ろしたところ、恋愛中の雀みたいなかわいい声が出た。あとは、神主のうなり声を聴いていると、地を鎮める風が北の方から吹いてくるのであった。嘻、カミサマ、そこにおられたのですね……
というのは全く作り話とは言えないのであるが、那須与一のエピソードは作り話の可能性が高いかもしれない。どうせ、実際は闇討ちにつぐ闇討ちの泥仕合だ。屋島の海岸線は、武士たちの死体で酷いことになっていたに違いない。もはや勝っても負けてもどっちでもいいみたいな情況だ。少なくとも当時の屋島の人々にとってはそうで、この死体を如何するかが問題だ。いま残っている何とか塚とか神社は、どうせ彼らの墓であろう……
小兵といふ条十二束三伏弓は強し鏑は浦響くほどに長鳴りして過たず扇の要際一寸ばかり置いてひいふつとぞ射切つたる、鏑は海に入りければ扇は空へぞ揚がりける、春風に一揉み二揉み揉まれて海へさつとぞ散つたりける、皆紅の扇の日出だいたるが夕日に輝いて白波の上に浮きぬ沈みぬ揺られけるを沖には平家舷を叩いて感じたり、陸には源氏箙を叩いて響めきけり
見事な場面である。扇の揚がって海に落下するその美しさは、やがて、平家の者たちの死体に切り替わる。ここの場面は、「木曽の最期」での、巴が相手の首を「ねじ切ってすててんげり」するところと同じ快感で書かれている。もう少しリズムにのれば「キル・ビル」の殺陣シーンに近いところまで行ったかもしれない。
高校生のとき「木曽の最期」の「すててんげり」に興奮するかオレは興奮するが、と問う国語教師に対して、わたくしは観念的にガンジーが偉いと思っていたので、「興奮しません」と言い切った。その国語の先生は立派な古典の先生で、いまは地元で革新勢力の代議士をやっているようである。先生の問には、たぶんご自身の実存も賭けられていたに違いないのだ。「オレは戦うけど、お前どうするんだ」と言っていたのであろう。わたくしは今なら「よく分かりません」と答えてしまうかもしれない。