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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

三宮神社を訪ねる5(香川の神社96-5)

2017-10-27 23:41:17 | 神社仏閣

神社の一番右手前にある空間は一番鬱蒼としているのですが……これは明らかにあれ的なあれです。

 
怖い狛犬さん


社の裏を見たら、「大正十五年三月十五日 林在郷軍人會建之」とあった。そういえば、正面に五芒星あったわ……

となりには、


「仰忠碑」。昭和三十年一月。


よく読んでみる。時々、西南の役からの戦死者をまとめて祀る碑を見ますね。こんなこともわたくしは知らなかったなあ……。二百二十七名が亡くなったか。国の柱になってはいないし、避けられた戦死であったに違いないのだが、――そう思えないのは理解できる。ただ問題は、「前代の不幸の轍を践むなきを念じ」という部分ではなかろうか。あれは不幸の轍を践んだのではない、むしろ、不幸の轍を践まないように念じていたからだめだったのであろう。不幸をつくりだす原因を除かなければならなかったのだが、それについて「単に誤った」というほかはない。


碑の下にまいまいつぶろがいた。


そういえば、別の場所にこういう碑もあった。昭和七年の上海事変のときの碑である。ここらあたりで何とか出来なかったのか……

三宮神社を訪ねる4(香川の神社96-4)

2017-10-27 22:49:04 | 神社仏閣
若宮神社の右側には、寄付で出来た休憩所があって、その横に鬱蒼とした神社?がある。


文化十一年。


「花壇」て書いてあるな……。


神橋もあるぞ。

  

石が祀られているから神社でいいか、いや庭園かな……。本質的に似てるんだろうね……。(とはいえ、最近わたくしは、石や樹木を視ると神社だと思い、石垣のある家などはほぼ神社に見えるようになってきてしまいました。なるほど、これが「神の国」という奴だろう。



三宮神社を訪ねる3(香川の神社96-3)

2017-10-27 21:54:22 | 神社仏閣
参道の右側には、大きく分けて三つの神社があるようであった。北東側の右奥には大きく空いた空間があってベンチと木が整然と並んでいたが、もしかしたらもともと拝師神社があったのかもしれない。いまは、拝師神社は元あった場所にあるので……

奥側から順に訪ねると……



注連石は明治二十六年であった。

 
狛犬さん


若宮神社であった……(なんと昨年改修工事が行われていた)


昭和十四年

興味深いのは、拝師神社も岩田神社も境内に若宮神社があったことである。これも思い切って一緒にしてしまったかな……


「三宮神社三社合祀三十年周年記念碑建立玉垣フエンス奉納」。林小学校第十七期卒業生と恩師の皆さんであった。「フエンス」のところで笑ってしまったわたくしに詛いあれ。

碑はこちら




本殿

三宮神社を訪ねる2(香川の神社96-2)

2017-10-27 21:10:51 | 神社仏閣

紀元二千六百年記念。東京からの寄付もあった。

参道の廣い両側はなんとも不可思議な空間である。三つをくっつけたことから来る不均衡からか……とおもったが、これはもともとの鹿島神社の性格を調べてみないとなんともわからんが……


右側には平成13年(西暦2001年との記載もあり)に寄進されたでっかい塔が馬の背後に聳えていた。

左側は庭園風になっていた。若一王子神社の内部にもこんな雰囲気があった。




「五十四紀念」とは……

 
橋を渡ると



左手に庭園風の空間あり




 


三宮神社を訪ねる1(香川の神社96-1)

2017-10-27 20:35:19 | 神社仏閣
昼下がり、三宮神社を訪ねる。


でっかい道路を走っていたら左手にいきなりあった。ブックオフの裏にあると地図ではみえたが、この碑はブックオフよりずずいと手前にある。参道がえらく長いと言うことだっ


御旅所


拝殿が遠くに見える……


鳥居(昭和63年)をくぐってふり返ると、高速の高架道路と一緒に絵になるね……


てくてく歩く


橋(大正8年)を渡る


大正3年の注連石を過ぎ、境内の手前でまた鳥居(平成12年)がある。参道の両側にはずらりと金を出した人の名前が並んでいた。


金、いや神は偉大なり~


玉垣にあるのは生駒さんのマークではないか……

この神社は、「拝師神社=香川の神社18」および「岩田神社=香川の神社58」が、鹿島神社と一緒になっているので三宮なのである。上の二社を訪ねた時に事情は記したのであるが、――陸軍のすっとこどっこいが陛下の命令だとかいうて、林町あたりを飛行場にしたため、追い出された神々が疎開させられたのが鹿島神社であった。昭和19年のことである。もう薄々負けるのが分かってるくせになにをやっているのか知らないが、ただの神社の無駄であった。といっても全てが無駄であった訳ではない。世の中弁証法に貫かれている。大量の死者はたまらず平和憲法をもたらしたし、何よりもこの三宮神社は、神戸の三宮神社より立派である。神戸のそれはビルの中に埋没したシティ神社であるが、まったく面白くない神社である。対して、この三宮神社は、「どうやら朝鮮出兵のときになんか持ってきてしまった噂の拝師神社」+「お大師様の弟子が関係してるぜ岩田神社」という二大異物テーゼによって、熊野宮を取り込んでいただけの鹿島神社に訳分からないパワーを揚棄させたのである。

つまり
 



いくぜアウフヘーベン


いや、まちがえた

 

我々の文化は、とりあえず、向かってくる悪にちょっと待って頂いて、パイルダーオンとかロボット三つくっつけりゃ強くなるにちがいない、とかやっている。これではあっちの「三位一体」とかには負けるであろう。昨日、共通科目で、本居宣長と平田篤胤の顕幽論を話したのだが、実は我々はこういう議論にはあまり向いていない。北村透谷のサブライム云云もそうだ。向いているのは、団子三兄弟とかである。


大正一四年の橋を渡る。




右手には、国旗台とポール。右手奥には更に英霊的なものがあったのだが怖いのでとりあえずメインストリートを歩くことにする。


ススメ一億、馬がかわいそう

 

左右にずらりと並んだ、燈籠と狛犬さんたち。すごい迫力である。三社連合艦隊。まさに、田舎に帰ったら駅で「渡邊史郎君万歳」と錦を飾られた気分である。てめえの国のものでないものをずらりと並べたルーブル美術館の壮麗さもよく分かる。


新しめなのは奥にあったから年代順なのであろうか……わからん

 
ものすごい体位である

 
この球を、鞠というのかサッカーボールというかで世代が分かれる。

 

 
江戸期から明治初期の狛犬がずらりと――なんだか両側から吠えられている気がしてきました。犬野郎は黙ってなさい。


逆光を背にする注連石(大正10年)


石のベンチ(祝沖縄復帰記念。昭和47年)


拝殿

                                   

  
合体!できない


賽銭箱。このマークは、公募で決まったらしいです。あっ、一万円札しかない




右手に回り込むとまず地神さん。


緑がまぶしい昼休み


大正十一年の大演習紀念。


本殿



 
本殿の裏手にはしぶとくひっそりと……


熊野宮。もともと鹿島神社の境内社であった。

 

 

 
天明7年。


誰だろう……



――つづく。