★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

親守歌?????

2014-01-25 11:10:24 | 文学
最近、ハンセン病の歌人を顕彰する展示に、協力した中学生の歌を一緒に飾ったり……といったニュースを聞いたように思うが、こんなニュースに限らず、素人が表現の恐ろしさを知らぬ暴挙に出ていることが多い。教育現場でも、すぐ「なんちゃら名人になろう」とか目標を掲げて、認識も感性も完全にガキレベル(子供だからしょうがないか)の作品を褒めることが多いのであるが、まあ確かに教育では褒めなければならないこともあるけれども、駄目なものは駄目なのである。文学的な表現というのは、自己表現というより、他人の気持ちを表現しなければならないことの恐ろしさから出発すべきだ思う。上の例の場合、どれだけ勝手に他人を忖度しているかにその駄目さは関わっている。しかも、自分から遠いと思われる対象に対して、忖度したがるそのやり方が基本的に、ヒーローやヒロインにシンクロしたがることと似ているのであり、それがたまたま文学作品になってしまったりするのは、大江健三郎ぐらいの異常な才能の場合だけであろう。ハンセン病患者とか英霊とかいじめられっ子に関して、他人が表現を行うこと自体、おそろしく劣悪なロマン主義、というか、他人の心を代弁して恥ずかしいとは思わないという幼い、いやもういい歳なのであれば「頭の悪い」水準である。(註:上の三者をマイノリティとしてくくったような発想をしているのは私ではない。)宮台真司が昔「恋空」に対して、「遠いものが勝つ」表現の頭の悪さを批判していたが、そんなもん、昔からよく知られた文学的表現のある種のモラルなのではなかろうか。

で、最近知ったのがこれである。



様々な意味で庇護されている子供の「親守」というのが既に何様なのだという感じがするが……とにかくこういうことをやらせようとすること自体気持ち悪不気味すぎる。

http://yoshiko-sakurai.jp/2009/08/22/1283

最近、戦時下のガキが編んだ歌集をいくつか見たのであるが、それよりも昨今の親守歌は表現としてまずい。こんなんで親子の絆を保っているようではもうおしまいである。だって、対象が「遠い」んだからな。私は、自分の子どもや親がこういうことをやり始めたら、縁を切るタイミングをはかりはじめると思う。まあ、もう修復不可能なほど家族も何もかも「終わっている」ので、歌でも創りたくなっているのかもしれない。しかし私は、他人のことはあまり忖度したくないので、想像するだけであるが……