goo blog サービス終了のお知らせ 

★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ドゥルーズ・ガタリと Philip M.Adamek と みうらじゅん 

2012-11-11 23:09:41 | 思想


学内のR先生からもらった論文二つを読み、そのあとドゥルーズ・ガタリの『哲学とは何か』を久しぶりに読む。

「あの議論屋たち、あのコミュニケーションたちのすべては、ルサンチマンによって駆り立てられている。彼らは、いくつかの空疎な一般論を戦わせておきながら、語ることといったら自分のことばかりである。」

大学院の授業でも扱ったわけだが……、Philip M.Adamek などが上の見解に反論していたけれども、わたくしは、キルケゴールの『反復』で再反論しておいたわっ。

……と、いろいろと疲れたんで、みうらじゅんさんが語る「愛の流刑地」論を聴く……。「愛の流刑地」は巷の〈涙のカツアゲ映画〉に対立する。コミュニケーションはカツアゲである。しかし、みうら氏は〈積極的に泣いていこう〉という〈どんと来い的な〉戦略を提唱しているw

議論と言い対話と言いコミュニケーションと言うけれども、最低上の三つのタイプが鼎立していないといかんだろう。全くの経験的で主観的な見方であるが──、自称新型鬱の人達の場合、思考に上のような意見の対立がないことが特徴だと思う。