
ドラマ「三国志」第6部終了。描かれていたのは張飛暗殺を受けての劉備の呉への進撃と死であった。
関羽、張飛の死後、劉備は明らかに目つきがおかしくなり、孔明の言うことも聞かず呉に攻めていって、木が生い茂る山中に駐屯するという初歩的なミスを犯し火攻めにあって敗走する。ただし、夢の中に関羽張飛が現れたりしてメロドラマになるよりは、怒りに我を忘れ呆けてしまった劉備を描いているのはなかなか面白かった。しかし、このドラマの演出の冴えは、呆けた劉備の更に上を行く
「高祖本紀は暗記したか?」
「はい」
調子よく暗唱した部分を朗読するアホ(いい音楽スタート)しかし
「えーとえーと」
「まだ覚えておらんのかっ」
アホを叩こうとする劉備、最期のエネルギーを使い果たし、力尽きる
「父上ッ」
劉備の一生は悲惨であった。最期に目撃したのが、義兄弟の姿でも孔明の姿でもなく忘却力抜群の跡継ぎであったとは。劉備の脳裏には、思い出の代わりに走馬燈のように蜀漢の滅亡まで見えていたのではなかろうか……。
あまりに劉備に悪いことしたとおもったのか、呉で孫夫人が後を追うように死んだことにしてた。(でも確か演義では、もっとドラマチックに入水自殺するんじゃなかったか……)
……しかし、阿斗の行動をある種の抵抗であったと捉えればどうであろう。劉備も孔明も漢の復興とかいう結局どこまで正義なのかわからんものにとらわれていた。だいたい暗記力が勝負の科挙的なものを信奉しておるから、いつまでも似たような王朝交代ばかりを繰り返しているのが彼らの実態ではなかろうか。しかもそんな環境での学は、ヤクザかマフィアかわからん連中のために発達し、忠君だか知らんがルサンチマンの処理を仕方を永遠に間違え続けるイデオロギーを保存させている訳だ。阿斗は、蜀漢が滅びた時に、「蜀漢はどうでしたか。今よりも楽しかったか」とか聞かれて「今が楽しいので蜀漢はどうでも良いよ」と言ったらしいが、文字通りとればまさしくその通り。今を生きる阿斗、まさにニーチェの徒であった。