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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ヤンボラ守る×ジャー

2010-12-19 03:32:57 | ニュース
新聞を見てたら、「ヤンボラ守るんジャー」という学生主体の防犯団体が、最近発足したそうである。

警察庁が創設した「若い世代の参加促進を図る防犯ボランティア支援事業」の一環らしく、どの新聞記事をみても「学生主体」の活動と言っている。そもそもなぜ警察庁の事業の一部の癖に「学生主体」であるとか書けてしまうのか。そもそも「促進を図る」「ボランティア支援」って、強制したいのか、支援したいのか、どっちなのだろう。ボランティアはそもそも自主的な活動じゃないのだろうか?「学生主体」と銘打っている事業で、学生が主体であった場合を、私はいまのところ見たことがない。

「主体」という概念は、日本の哲学史のなかで非常にやっかいな経緯をもつ言葉のひとつであるが、とりあえず日本の新聞記事で使われる場合、北朝鮮の主体思想並みのレベルかそれ以下のニュアンスしかない。だいたい、下いびりの上諂い的な人間が元気になる政策について使われる。

戦前の高校や大学でナショナリズムを煽った学生に主体はあったか?学生運動で大学の研究室を荒らしていった学生に主体はあったか?

「ヤンボラ守るんジャー」というネーミングの頭の×さに苛々し、駅前とかで活動しているその防犯団体の学生をぶんなぐってしまった場合、誰が責任をとってくれるのだろう。むろん殴ったやつの責任である。

無論、心遅れ、かつ心ある人々は、そんなことで人生を棒に振る訳にはいかないと考えるであろう。くだらない風が吹いているが、それはいつもいつかは止むであろう、と考えるであろう。弁証法をわたくしは信じるものである。