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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

セ2――合格文化

2019-01-20 18:31:04 | 大学


ある者は自分の影を踏もうとして駈けまわるが、大抵は他人の影を踏もうとして追いまわすのである。相手は踏まれまいとして逃げまわりながら、隙をみて巧みに敵の影を踏もうとする。また横合いから飛び出して行って、どちらかの影を踏もうとするのもある。こうして三人五人、多いときには十人以上も入りみだれて、地に落つる各自の影を追うのである。もちろん、すべって転ぶのもある。

――岡本綺堂「影を踏まれた女」


なんしろ字なんか書くって奴はいとも面倒くさいもんであるよ、みんなよくもまあながながとことや細かくつまんねえ屁理窟やつまらん男と女がどうしたとかこうしたとか、すべったとかひっくりかえったとか凡そベラボーでちんぷでなさけなくはては臍茶なもんやないかないか――だがみんな生きとしいけるものはおまんまというものをいただかなければならないのが、実に厄介センバンだよ。これにはシャッポだ。だから私は凡そおかねのない人達がどんなことをしようとやろうとたいていがまんしてむりもないなと考えながら傍かんしているんだ。

――辻潤「だだをこねる」


二つの足で立つようになるために、人間は二十万年もころんでは立ち、ころんでは立ちしたんだろう。そして、手が自由になったとき、どんな気持ちがしただろう。
 ものをつかんで、土の上に立った人間のすがた。

――中井正一「生まれ変わった赤坂離宮」


寧そ初めからやり直した方がいいと思って、友達などが待って居て追試験を受けろと切りに勧めるのも聞かず、自分から落第して再び二級を繰返すことにしたのである。人間と云うものは考え直すと妙なもので、真面目になって勉強すれば、今迄少しも分らなかったものも瞭然と分る様になる。

――夏目漱石「落第」


……青空文庫で、「合格」を検索したら、安吾が共産党を貶した「戦後合格者」ぐらいしかでてこなくて、滑ったり転んだり落第するなら沢山出てくる。思うに、戦後世界というのは、やたら「合格」を基準に成り立っている世界といえるのではなかろうか。安吾言うところの堕落を避けようと「合格」文化をつくってしまったのであろう。そこで内発的な思想がどんどん失われて行くことになったのであろう。マルクスの思想に合格、トランプの意向に合格、といった具合に。どうしようもない。

国語研究室スポーツ大会開催

2018-12-15 22:58:20 | 大学


今日は国語研究室のスポーツ大会で、スケートしに行きました。三十年以上前にスピードスケートしかやったことのないわたくしが、40越えてフィギアスケートで3回転半


横転


などをしつつ、二時間遊びました。そのあと、忘年会……。この全身の軋みは忘れまじ。

生唾が煙になって、みんな胃のふへ逆もどりしそうだ。ところで呆然としたこんな時の空想は、まず第一に、ゴヤの描いたマヤ夫人の乳色の胸の肉、頬の肉、肩の肉、酸っぱいような、美麗なものへ、豪華なものへの反感が、ぐんぐん血の塊のように押し上げて来て、私の胃のふは旅愁にくれてしまった。いったい私はどうすれば生きてゆけるのだ。
 外へ出てみる。町には魚の匂いが流れている。公園にゆくと夕方の凍った池の上を、子供達がスケート遊びをしていた。固い御飯だって関いはしないのに、私は御飯がたべたい。荒れてザラザラした唇には、上野の風は痛すぎる。子供のスケート遊びを見ていると、妙に切ぱ詰った思いになって涙が出た。どっかへ石をぶっつけてやりたいな。耳も鼻も頬も紅くした子供の群れが、束子でこするようにキュウキュウ厭な音をたてて、氷の上をすべっていた。


――林芙美子「放浪記」

灼熱キャンパス覚え書き

2018-08-07 23:17:17 | 大学


今日はオープンキャンパス。高校生の頃のことを考えると、そんな勧誘にのってたまるかよという気持ちであった――と思い出そうとしたのだが、我々の頃はまだこんなイベントはなかったので思いようがなかった。いや、やってたところもあったのかもしれない。

われわれの社会は、本当は高校生たちの主体性が発揮されることを期待しているかどうか、かなり怪しい。親などは、根本的に子どもの主体性の発動を恐怖しているといってよいだろう。というか、高校生本人達も恐れているのだ。

しかしまあ、実際、その主体性みたいなものをモチベーションとかなんとか「力」みたいな目に見えないものとして考えているからいけないので、目標なんて勉強しているうちにあとから出てきてしまうものではなかろうか。国語の勉強の仕方で、気をつけなければならないのは、こちらに解釈の主体があるという勘違いである。我々が読んでいるのではない。主体は文章にあり受信装置がこちらにあるかないかなのである。それは数学や英語と同じで、ある程度は反復練習によってしか生成されないのではないかと思う。そして勉強に限らずであるが、楽しさとは、その反復の快楽である。

批判的能力とやらも、その受信装置がまともであるときに機能し始める。主体と客体をひっくり返す発想ばっかりしているから……

この前、授業でも言ったけど、読書自体に対する考えかたも、一般的にだいたいひっくり返ってしまっている。言うまでもなく、我々が本を選ぶのではなく、本が我々を選ぶのだ。選ばれるまで読み続けるのが一番早い。

考えてみると、大学入試も大学の方に選抜の主体があるのであった。当たり前だが、いろいろな意味でこれは重大なことである。ペーパー試験はテキスト(本)の行為だが、面接や今話題の点数いじくりは人間の行為である。ちょっとわかりにくいかもしれないが、ここんとこが重要ではなかろうか……

サマータイム(笑)

服部徹也氏と北川扶生子氏の論文を読む。北川氏の論文に書いてあったのだが、確かに女性の移動と性的堕落に結びつくという見方がかつて見られた気がしないではない。ただ、男の場合もそうかもしれない……