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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

セ2

2020-01-19 23:35:26 | 大学


確かにいやな業務ではあるのだが、きちんとやってしまうのが我々の性で。だからさ、「あのときはバカでした」といういいわけは大概嘘なんだと思うね……。

それにしても、わたくしは、センター試験第一回目の受験生であった。そして最後は試験監督している。西田幾多郎みたいに、黒板を前にしてそして背にして立った、つまり一回転したのだとか言ってみたい。わたくしは、まったくいまでも受験生の気分である。黒板を前にしても背にしてもまったく同じものに強いられているからだ。あるいは、西田ですら、黒板というものに拘りすぎていたのかもしれない。あまり気にしない生き方というものもありうるのである。


病院図書館会議室研究室教室自宅

2019-05-13 23:22:36 | 大学


ただ移動しているだけの一日であった……。

デボーリンの『レーニンの唯物弁証法』読んでたら、ローザ・ルクセンブルクを批判しているところが出てきた。彼女が「闘争は侵略に対する最上の手段である」というのに、それは普遍的であっても「普遍と特殊の契機的な論理的な差異を見逃してはならぬ」と、レーニンは言っているという。

こうやって、何か現実的判断を妙な「契機」だとか言いながら行う人がいて、闘争を組織のあれに変えてしまうのであった。これはいまでも其処此処にある現象である。

随筆

2019-05-12 23:00:03 | 大学


最近、大学の授業で、「随筆」を書かせてみている。学術的なレポートのスタイルはどうも窮屈なので、特に若い学生に随筆を書かせてみるのである。日記みたいなものではなく、詩や小説の解釈を「随筆」として書かせるのである。

すると、頭の働き出す学生がいる。もっとも、全員ではなく、かちっとした学術的なものを要求した方がよい学生もいる。

教育はやろうと思ったらすごく時間がかかる。教育が、学生を社会に馴致させる側面と反社会的に自らを防衛する側面の両方を扱っているから、という根本的な問題があるからである。後者を重視して、主体性などを中心にプログラムしても、近代社会みたく前者を中心にプログラムしても、どっちもお互いは排除されずにくっついてくる。これをあまり簡潔にすることは出来そうにない。

考えてみると、学生の一部にとっては、随筆風の考え方の方が、内発的に「社会性」を帯びているのである。で、やってみたわけであった。

科学者の非科学

2019-05-10 23:20:20 | 大学


大学にいくと、だいたい世の中の問題が、弱者のいいわけによって成り立っているのが分かる気がしてくるが、錯覚かもしれない。

学者にとっては自分の専門分野も含めて訳が分からないジャングルみたいな世界が目の前に広がっているのだが、それでも、ほとんど闇にみえるものと輪郭は見えそうなものはある。文学なんかをやっていると、今日演習で扱った漱石の作品なんかは、少し輪郭は見えそうな感じなのだが、数学物理生物化学あたりの分野はほとんど忘れてしまったことで完全な闇である。高校まであった「現代文」とかなんとかいう括りがないようなもんであることを考えると、所謂その「理系」科目なんかもそんな感じであることは明らかなのだが、手がかりさえない闇なのでさっぱりである。

今日、生物の分野?の中屋敷均氏の『科学と非科学』を読んだ。結構面白かったが、大学の現状を憂いたあちこちの箇所については、正論ではあるが、――むしろ、氏の言う「牙を持たない大学人」の欠点が良くあらわれているような気がしないでもなかった。第一二話の「閉じられたこと」で語られている、「開かれたところ」ではない「閉じられたところ」でのカビの発生のような研究の大切さなど、――それはかなり以前から言われてきたことであって、かかる認識を持つだけでは、この現状を打開できないことこそが問題なのである。文学や哲学で延々議論されてきたこの話題を、科学的な事例を「比喩的」に使用して簡単に書いてしまうべきではないような気がする。我々はカビではないからだ。

「エピローグ」では、「偶然」の力を語る氏だが、「この世に生きる勇気を与えてくれるのは、人の心にあるそんな「物語の力」ではないのだろうか」と言ってしまうところがやはり気になる。

思うに、理系の学者にはこういうナイーブなところがあるような気がしないでもないが、それはわたくしの偏見だろう。(時々、理系のお偉方が、大学の広報みたいなところで、文学をやっている身からすると完全に盆×レベルの文学認識を披露しているのをあちこちで見かけるのでそんな偏見が生じてしまったのであろう。)大学の現状を含めた我々の凋落は、「この世に生きる勇気」といったせりふを「小学生かよ」と笑い飛ばすようなリテラシーが失われたことから来るように思われる。さっきの「牙を持たない大学人」なんかも、それは比喩だとわかっているが、――我々はもともと牙なんて持っていないのであって、それが、実際何が欠けてしまったのか(知っているけど)考えないための修辞になってしまっていることが問題なのである。なぜこういうことを思うかといえば、ポンチ絵つきのミッションのなんとかみたいな書類に書かれている表現の特徴がまさにそれだからだ。

「あとがき」をみると、「小説は、人に生きる勇気を与え、人生の意味を考えさせてくれる」とあった。小説に対してこんな考えでのぞんでいるのは、九九を間違えているレベルである。むろん氏の主張は、科学の発展には小説的な感性がむしろ必要なのだということなので、むしろ主張をつくるための修辞であるとみえなくはないのであるが、どうもそういうことを越えたナイーブさが感じられる。まだ氏の中ではそういうもの(物語や小説みたいなもの)は密かに働いている「非科学」の領域なのである。しかしそれは違うと思う。――たぶん、氏は本当は分かっている。ただ、通りが良さそうな言葉を書いてしまうことになれているだけだ。

みんな「教科書が読めない」のである

2019-02-15 23:07:41 | 大学


新井紀子の『AI対教科書が読めない子どもたち』を少し読んだ。AIに対抗する以前に我々の多くが教科書を読めない状態であることを告発した本である。が、それはいまに始まったことではなく、小学校を卒業する時点で、かなり多くの人が、国語の教科書の四割ぐらいは言っていることがわからない(ということが分からない)という状態にあり、中学高校、大学に進むにつれてその割合は増えていく。それを論理的な文(章)の運用訓練をすることで解決するようなやり方が可能だろうと思う人もいるかもしれないが、それこそ自分がどのように文章を読めないかを分かっていない人であろうと思う。文章が読める状態など、まあありえない(読みの多様性とかいうことではない。そんなものも本当はない)というのは文学をやっている人間にとっては自明の理だし、日本語の論理というのが何か、本当はこれさえ我々はよく分かっていない。たぶん日本語学をやっている人間もそう言うはずである。さまざまな分野の学問と同じく、文学、語学、論理学……、殆ど分かっていないことだらけであって、そこからみると、教育なんて、なんだかよく分からん賭をやっている状態なのだ。最近の全ての改革ヲタクに言えることだが、とにかく、いろいろなことを舐めすぎなのである。論理の切れ味を誇っているつもりがすごくバカでした、みたいなことは、卒業論文で皆が思い知ってるはずである。しっかりしてくれよ……

「教科書を読める」やつなんていない、という原則から外れている議論はすべてふざけている。

附記)後日、プログラミング教育の当事者と話をしたのだが、彼らが言う論理というのは、目的に添った条件付けの構築みたいなことのように聞こえた。言うまでもなく、そういう論理の形は、人間の用いる論理のごくごく一部に過ぎない。