大学にいくと、だいたい世の中の問題が、弱者のいいわけによって成り立っているのが分かる気がしてくるが、錯覚かもしれない。
学者にとっては自分の専門分野も含めて訳が分からないジャングルみたいな世界が目の前に広がっているのだが、それでも、ほとんど闇にみえるものと輪郭は見えそうなものはある。文学なんかをやっていると、今日演習で扱った漱石の作品なんかは、少し輪郭は見えそうな感じなのだが、数学物理生物化学あたりの分野はほとんど忘れてしまったことで完全な闇である。高校まであった「現代文」とかなんとかいう括りがないようなもんであることを考えると、所謂その「理系」科目なんかもそんな感じであることは明らかなのだが、手がかりさえない闇なのでさっぱりである。
今日、生物の分野?の中屋敷均氏の『科学と非科学』を読んだ。結構面白かったが、大学の現状を憂いたあちこちの箇所については、正論ではあるが、――むしろ、氏の言う「牙を持たない大学人」の欠点が良くあらわれているような気がしないでもなかった。第一二話の「閉じられたこと」で語られている、「開かれたところ」ではない「閉じられたところ」でのカビの発生のような研究の大切さなど、――それはかなり以前から言われてきたことであって、かかる認識を持つだけでは、この現状を打開できないことこそが問題なのである。文学や哲学で延々議論されてきたこの話題を、科学的な事例を「比喩的」に使用して簡単に書いてしまうべきではないような気がする。我々はカビではないからだ。
「エピローグ」では、「偶然」の力を語る氏だが、「この世に生きる勇気を与えてくれるのは、人の心にあるそんな「物語の力」ではないのだろうか」と言ってしまうところがやはり気になる。
思うに、理系の学者にはこういうナイーブなところがあるような気がしないでもないが、それはわたくしの偏見だろう。(時々、理系のお偉方が、大学の広報みたいなところで、文学をやっている身からすると完全に盆×レベルの文学認識を披露しているのをあちこちで見かけるのでそんな偏見が生じてしまったのであろう。)大学の現状を含めた我々の凋落は、「この世に生きる勇気」といったせりふを「小学生かよ」と笑い飛ばすようなリテラシーが失われたことから来るように思われる。さっきの「牙を持たない大学人」なんかも、それは比喩だとわかっているが、――我々はもともと牙なんて持っていないのであって、それが、実際何が欠けてしまったのか(知っているけど)考えないための修辞になってしまっていることが問題なのである。なぜこういうことを思うかといえば、ポンチ絵つきのミッションのなんとかみたいな書類に書かれている表現の特徴がまさにそれだからだ。
「あとがき」をみると、「小説は、人に生きる勇気を与え、人生の意味を考えさせてくれる」とあった。小説に対してこんな考えでのぞんでいるのは、九九を間違えているレベルである。むろん氏の主張は、科学の発展には小説的な感性がむしろ必要なのだということなので、むしろ主張をつくるための修辞であるとみえなくはないのであるが、どうもそういうことを越えたナイーブさが感じられる。まだ氏の中ではそういうもの(物語や小説みたいなもの)は密かに働いている「非科学」の領域なのである。しかしそれは違うと思う。――たぶん、氏は本当は分かっている。ただ、通りが良さそうな言葉を書いてしまうことになれているだけだ。