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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

太田上町の地神さんを訪ねる(香川の神社214)

2022-01-06 18:59:12 | 神社仏閣


地神さんに大きな碑がついているのは珍しいように思う。伊勢神宮にお米を奉納したようである(平成14年)。



平成31年に近くの聾学校の敷地内からここに移ってきたようである。



隣の畑に瓢箪あり。来年はこれを栽培したいものである。

伏石神社に初詣する(香川の神社2-10)

2022-01-03 23:05:37 | 神社仏閣


初詣です



かわいいと思う(細君は、なんか四角っぽくない?と言った)



忠魂碑。側には、大きい顕彰碑があるが、これは東京オリンピックのときに建てられたものである。1964年のそれは近代の戦争(碑ではだいたい「戦役」という)を平和に貢献?あるいは向かうものとして総括する意味があった(というか、そういう意味を付す絶好の機会であった)。ここにルサンチマンを見るのは容易であるが、敗戦というものは常に否認されるものであるとも言えるし、国家の側からするとそれを否認と意識せずに揚棄してしまうものが必要だともいえ、――碑を残すことで戦死者と一緒に自分達も一緒に葬られようとする意識が働いているのかもしれない。つまり、戦後の経済成長とは、不発であった一億総自決を前提としていたかのようだとも思えるのである。こういう碑が存在を許されているのは神社であり、意志としての死が生であるような曖昧さが許される場所であった。外部の世界は、曲がりなりにも「生きよ墜ちよ」の世界になってしまったからである。

この前のオリンピックはそういう側面がなかった。一応、はじめは震災の総括を試みて、似たような空気をつくろうと頑張ったが、震災には原発事故がくっついていて簡単にはいかなかった。敗戦というのは、自分自身のみでは不可能である。死んでいるのか生きているのかわからない情況では、生きているのか死んでいるのか分からない行事が生成されるわけで、コロナのせいにできるのは単なる幸運である。この神社の新築を説明した碑には、新型コロナ対策緊急事態宣言の中棟上げしたと書いてあって、なかなかかっこがよかった。

新開水神社を訪ねる(香川の神社212)

2021-10-19 18:54:58 | 神社仏閣


新開水神社は、木太町。案内板がちゃんとあった。ここらは寛文年間に干拓された地であって井戸をつくってもたいがい失敗であったが、ここの井戸だけはきれいな水がわき出ていた、そこで、新開・州端地区の住民がここに水をもらいに来ていたらしい。そこで祀られたのがこの水神である。昭和30年代までこのもらい水の習慣は続いていたという。

戦時中の『香川県神社誌』に載っている「新開神社」は近くに別にあるようだがまだ訪ねていない。この「新開神社」は祭神が保食神である。結局、日本の神社というのは保食神とか水神というのが多いのだ。みんな食べるために大変な思いをしていたわけである。この保食神とは、日本書記にも出てくる女神で、アマテラスがツクヨミに、保食神を訪ねさせたところ、陸には米を、海には魚をゲロしていたのであった。それをみたツクヨミはあまりにBかだったので、思わず斬り殺してしまった。そしてその屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生えてきたのである。

頭から牛馬がでてくるのがすごいが、視点を引いてみてみれば、われわれだって、山や川のほとりから生えてきている植物となんら変わりない代物である。陰部から麦ではなく我々がでてきてもべつにかまわない。いろいろなものの屍体から様々なものが生えてくるのを昔の人たちは見ていた。

いうまでもなく、こういう形の神話を、ハイヌウェレ型神話という。ハイヌウェレはインドネシアの島の少女であり、尻から宝物を出すので気味悪がってみんなで殺して埋めた。で、父親がその死体をわざわざばらばらにして畑に植えたところ、いろいろな芋が生えてきたのである。しかし、まあ、この少女、そもそもココヤシの花から生まれているのであって、まずそこに村の連中が驚かないのがおかしいし、この父親、さてはココヤシと異種交配をやらかしているのであった。まあ、ココヤシに性的魅力を感じるのはわからないではない。べつに植物に恋してもいいじゃないか。



水神のかたわらからココナツに似た人が生えてる!

名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実一つ

故郷の岸を 離れて
汝はそも 波に幾月

旧の木は 生いや茂れる
枝はなお 影をやなせる

われもまた 渚を枕
孤身の 浮寝の旅ぞ


さすが島崎藤村、もう少しで椰子の実に惚れそうになっている。しかしそこは近代人の悲しさで、恋したのは自ら、「孤身」であった。

新築の伏石神社を訪ねる(香川の神社2ー9)

2021-10-16 23:39:09 | 神社仏閣


ほぼ立て替え完了の伏石神社を訪ねました。

一般に、平成の時とちがって金がないのか、信心がだだ下がっておるのか、――最近神社巡りが出来てオランので分からないけれども、改元紀念の鳥居はまだ確認できてません。しかし、伏石神社のそれは真新しい。メディアが妙に神社をブームにしたところがあるが、観光客が沢山来てもどすんとお金を出していろいろな物体をおっ立てる地元の人がいないと神社はなかなか生きてゆけない。ちなみに、鳥居の位置がかわっています。参道の一番前にでてきました。



拝殿





お狸様も健在。以前は、この二人の前にもう一人おられたが、、、



横にいた。やはり他を抜くとか言うのは二人の方がよいのであろうか。三人だといろいろと面倒だからな、この世は。狸だからダマし合いも二人だったらいいが、三人のダマし合いはもう脳がついていかない。世の中が、二項対立を好むのは嗜好ではなくて能力の問題なのである。

野田池のお地蔵さんを訪ねる(香川の地蔵24-2)

2021-04-01 23:49:57 | 神社仏閣


横の石碑には、「このお地蔵さまは享保十二(西暦一七二七年)湛明元江和尚と宝暦六(西暦一七五七年)博道覚性沙弥二人のため、また野田池の安全と多くの人々の冥福を祈って建立されたものと思われる」とあった。一人目は福岡の戒壇院の第四代住職みたいだが……。

野田池からの眺めは、年々変化している。このブログのバナーの部分がその風景なんだが、四国山地よりもマンションがにょきにょき生えてきている。

我々は風景の中から人間を見出すみたいな顛倒から文学を作ってきた歴史のなかに生きているのだが――、これは案外柄谷行人が言うような意味でのパースペクティブの成立以上の意味がある。

桜をみていると、感覚がぼけてくる感じがして好きじゃないが、これがなんとなく鬱っぽくなることと関係があるのではないかと勝手に考えている。桜なんかより人間のほうがうつくしいに決まっている。しかし、我々は桜なんかを見てしまう、――というより、常に人間と桜の混合した状態を眺めているといってよい。古い和歌たちは無論そうである。わたしは山の中で育ったので、桜は山が白粉をしているようでなんとなくこちらも恥ずかしい感じがするが、平地の桜は、なんですかこれから小麦粉で料理はじめんですかみたいなかんじがする。――こんな認識だって、混合状態を示している。

「クラシック名曲「酷評」事典 下」には、ショスタコービチの「マクベス夫人」の米ソそれぞれの酷評が載ってておもしろかった。アメリカのニューヨーク・サンの批評は、これは「閨房オペラ」でそのセックス描写は「便所の落書き」だと言う、プラウダはよく知られているように、それをはじめ「自然主義」だと言っていたが、「形式主義」と言い出す。ここにも、人間の肉体と閨房や便所、「形式」といった二対の混合である。批評者たちは、音楽を用いて、人間のいる物質的な風景を見ているのであった。

Carl Rugglesに、「Sun-treader」 (1931) という曲があるが、これに対してドイツの「音楽報知新聞」の批評家は、「太陽を踏む者」ではなく「便所に踏み入る者」であると酷評した。しかし、なんとなく酷評の気分は分かる気もする。この無調音楽は人間のそれの感じがしなかったのだ。評者は、人間への懐かしさのあまり「便所」と言ってしまったのである。無調の陶酔で「胃が収縮」しそうだと告白しながら、無調を肉体の問題として解することまでやっている。そういえば、以前、某便所の落書き掲示板で、ショスタコービチのバイオリン協奏曲に対して、「ガクガクブルブルオシッコシャーシャーみたいな曲」と言われていたが、結構イメージとしては当たっていると思う。ショスタコービチは、無調や新古典主義や機械主義に対して、いかに性欲や肉体の勝手な動き(げっぷやおなら)をねじ込むかを若いときから考えていた。

その意味で、石の像というのは風景でもあり人間でもある、うまい解決の仕方である。

もっとも、オスカーワイルドなんかは、そんな庶民の気持ちは分からない。石になってゆく王子様に向かって燕として愛を捧げるのである。

艮神社を2011年に訪ねた(広島の神社1)

2021-03-03 23:53:07 | 神社仏閣
もう10年の前になるけれども尾道に文学散歩に単身行ってきたことがあった。その頃はあまり神社にも興味がなかったが、千光寺山ロープウェイから下界を見ると巨大な植物がみえたが、それが有名なクスノキ群であった。ロープウェイをおりて早速行ってみたのを思いだした。



参道のひとつをふりかえる





クスノキ。樹齢900年だそうである。



本殿横の巨石。



巨石の頭を覗いてみる、クスノキが見える。



https://www.buccyake-kojiki.com/archives/1023739803.html

上の記事によると、

平安時代は、スサノオ=牛頭天王社として出発したらしい。もとは福山市木之庄町にあったらしいのだ。で、建武のころ、この地にやってきた。イザナギを一緒に祀ることにし産土神となる。秋津洲神社と改称するのであった。江戸時代になると、福山城築城のときに、「城郭の鬼門・艮(うしとら)の方位(北東)を鎮める守護神として、秋津艮大明神」となる。江戸期の福山藩主の尊崇をうけて大きくなる。と、ここまでは、わりとよくある鬼門守護神、厄除神の誕生である。ところが、戦後、全国的にいまのおじさんや若人に知られることになる、――「時をかける少女」の主人公が、時空の裂け目から落っこちたり、「かみちゅ!」(見たことないが)に登場した結果、所謂「聖地」となったのだ。と思っているうちに、いまや、外敵から守る守護・厄除けといった受け身の姿勢から、「パワースポット」とかいう謎の積極トポスと化した神社である。そういえば全国の他の神社も、そうなっている。現在が、神社が歴史上最も「精神的な」何かとして見られている時代ではなかろうか。いままでは、どちらかというと何か見えない武具みたいなものだったのだ。



憂愁の文学が、陰鬱な時代に出て来るとすれば、其は愚痴文学であり、口説の文学に過ぎぬであらう。
其と今一つ、もつと芸文を育てる原動力になるものは、擁護者である。擁護する者なしに、育つてこそ、真の芸文ではあつても、擁護するものゝない迫害の時勢には、芸文は萎れいぢけてしまふのである。「花」は花でも、温室の花を望む吾々ではない。擁護者の手で、さもしい芸文の幸福を、偸みたいとも思はぬ。
だが、さう言ふ擁護によつても、咲くべき花の、大いに咲いて来て居るのが、歴史上の現実であつた。成り上り時代・俄分限の時勢の、東山・桃山・元禄などの時代が、吾々に多くの遺産を残してくれたことは、疑はれぬ事実なのである。此が、文士・芸術家の理想を超越した世間の姿なのであつた。


――折口信夫「文芸の力 時代の力」



折口は大げさに言っているけれども、結局いつも花は咲くっちゃ咲くということだ。文学は分からんぞ、でも花は咲くだろう。クスノキも大きくなる。