林羅山が32歳になった年、京都・方広寺鐘銘事件をキッカケに
「大坂冬の陣」が勃発する。
それは、豊臣家が再建した方広寺に設置された梵鐘に刻まれた
銘文が問題となる。この銘文の内容が徳川家康の機嫌を損ね、軍事
衝突へ突き進む。
その銘文の中に“国家安康”の句があり、“家康”の名前を分割
したのは不敬であると羅山が指摘する。資料は「大日本史料」より。
慶長19年(1614)の冬に始まった戦闘は、同年12月20日に和議が
成立し終了。この和議により、大坂城二の丸、三の丸を守る堀が埋
め立てられ、翌年の「大坂夏の陣」で豊臣家は滅亡する。
「大坂冬陣記」は、家康に従って大坂に向かった羅山の従軍日記
で、家康に面会に来た人物の名前などが記されている。この記録は
「羅山林先生別集」(寛文2年・1662刊行)に収められている。
(国立公文書館:千代田区北の丸公園3-2)
「大坂冬の陣」が勃発する。
それは、豊臣家が再建した方広寺に設置された梵鐘に刻まれた
銘文が問題となる。この銘文の内容が徳川家康の機嫌を損ね、軍事
衝突へ突き進む。
その銘文の中に“国家安康”の句があり、“家康”の名前を分割
したのは不敬であると羅山が指摘する。資料は「大日本史料」より。
慶長19年(1614)の冬に始まった戦闘は、同年12月20日に和議が
成立し終了。この和議により、大坂城二の丸、三の丸を守る堀が埋
め立てられ、翌年の「大坂夏の陣」で豊臣家は滅亡する。
「大坂冬陣記」は、家康に従って大坂に向かった羅山の従軍日記
で、家康に面会に来た人物の名前などが記されている。この記録は
「羅山林先生別集」(寛文2年・1662刊行)に収められている。
(国立公文書館:千代田区北の丸公園3-2)