余命宣告とセカンドオピニオン
なぜ余命宣告に対して患者に選択肢がないのか。生きるには希望が必要で、余命宣告は希望を奪う。繊細な心の持ち主なら自殺さえ誘発するだろう。余命宣告の希望を予め確認し、宣告する場合もメンタルケアをするべきではないか。
私が提案したいのは、病院に入る際に、リクエストカードで本人の希望を確認する方法だ。たとえば、『余命宣告: 希望する・希望しない(家族のみ)・○か月以下なら希望』のように。もし希望する場合も必ずメンタルケア担当の医師なり専門家がフォローアップをするべきである。こうすれば、たとえば家族だけに余命宣告された際にも家族は本人の希望を客観的に知ることができるから、伝えるか伝えないかで思い悩まなくても済む。
がんセンターで「抗がん剤しかない」と言われても、それは避けたかった。がんで家族を失った人達から、「抗がん剤で苦しませた」と副作用の評判の悪さを聞いていたからだ。
私達にとって大きな決断をする時が来た。診断を受けたショックも癒えぬ間に、情報収集を始めた。1週間後の入院予定日までにあらゆる情報を揃え、セカンドオピニオンをとり、あわよくば別の治療法が見つかれば良いと考えた。
複数の友人から、東洋医療を取り入れた帯津三敬塾病院の帯津先生の名を知った。最も抗がん剤を勧めなさそうな、この先生に聞いてみようという話になった。セカンドオピニオン専門の元国立がんセンターの外科医にも打診した。もし片方でも抗がん剤はやめた方が良いと言えば、抗がん剤はやめようと話し合う。ところが、どちらの先生も、「これだけ勢いの強いがんであれば、抗がん剤しかない」と言う。2人でうなだれた。でもそれが今考えられるベストなら、やるしかない。
帰る途中、ホテルのロビーで美しく飾り付けられたクリスマスツリーを2人で眺め、これから起きることを考える。少し不安になるが、私だけは強くなければと気を引き締めた。
初めての抗がん剤と入院
入院は、’08年12月15日。初めての治療でどんな副作用が出るのか分からず、年始年末にかかるため、1カ月の長期入院となる。病室は、古くて狭い相部屋だ。夫には、「これからホンモノのコスプレナースが面倒を見てくれるから大いに楽しむように」と冗談を言ったが、身長186cmの夫には小さすぎるベッドが痛々しかった。
夫の闘病中、私が心がけたのが、いつもの自分で居ることだ。それは即ち、ユーモラスな自分。がんでショックなのは夫だ、なるべく夫には穏やかに過ごさせたい。幸いなことに最初の抗がん剤は順調に終了した。
病院生活が寂しくないよう、毎日早い時間から病院に行き、面会時間ぎりぎりまで共に過ごした。毎日、食料、着替えやミネラルウォーターをリュックに詰め、病院に来る私を見て、夫は「まるで闇市に行くみたいだね」と笑った。
開放的でありたいから、病室のカーテンは閉めずにいた。ベッドの簡易テーブルに2人で向かい合い、食事を共にする。ベッドが我が家の小さな食卓となる。ちゃぶ台を囲む雰囲気が良かった。不便だらけの病院生活だがそれも楽しもうと思ったし、夫も楽しんでいた。夫はブログでその時の光景をまるで昭和の映画の世界だと表現した。要は心の持ちようで不幸にも幸福にもなる。
夕方になるといつも8階のテレビルームに行った。天気が良い日は夕陽を背景に富士山がくっきりと見える。夫は富士山が大好きだった。これは良い場所を見つけたと思った。
点滴をうけて数週間後、ベッドを掃除してたら枕に髪の毛がごっそり抜けてるのに気づく。抗がん剤の影響が出始めていた。お洒落な夫にはショックだったろう。かなりめげているのが分かった。食事を食べ終わる度、「完食!」と誇らしげに言う一方で、夫の体重は日に日に落ちていく。心は焦った。
病室の患者仲間と夫が仲良くなり、よくテレビルームで話をしていた。やはり同じ患者でないと分かち合えないものがあるのだろう。前向きで明るい人達だったから夫も良い影響を受けたようだ。初老の気さくなSさんが、奥さんが見えた時に、「石井さんの奥さんはね、毎日通って来ては、『信平さん、信平さん』って大変なんだよ。俺もあんな風にしてほしいなぁ」と言っていた。そんな風に思われていたのかと気恥ずかしかった。
信平さんの友達が何人も来てくれた。つい病気に向き合いすぎる私達によい気分転換となる。やはり、友人の力はすごい。病人に大切なのは、心配ではなく、生き生きとした空気なのだと痛感した。
つづく
なぜ余命宣告に対して患者に選択肢がないのか。生きるには希望が必要で、余命宣告は希望を奪う。繊細な心の持ち主なら自殺さえ誘発するだろう。余命宣告の希望を予め確認し、宣告する場合もメンタルケアをするべきではないか。
私が提案したいのは、病院に入る際に、リクエストカードで本人の希望を確認する方法だ。たとえば、『余命宣告: 希望する・希望しない(家族のみ)・○か月以下なら希望』のように。もし希望する場合も必ずメンタルケア担当の医師なり専門家がフォローアップをするべきである。こうすれば、たとえば家族だけに余命宣告された際にも家族は本人の希望を客観的に知ることができるから、伝えるか伝えないかで思い悩まなくても済む。
がんセンターで「抗がん剤しかない」と言われても、それは避けたかった。がんで家族を失った人達から、「抗がん剤で苦しませた」と副作用の評判の悪さを聞いていたからだ。
私達にとって大きな決断をする時が来た。診断を受けたショックも癒えぬ間に、情報収集を始めた。1週間後の入院予定日までにあらゆる情報を揃え、セカンドオピニオンをとり、あわよくば別の治療法が見つかれば良いと考えた。
複数の友人から、東洋医療を取り入れた帯津三敬塾病院の帯津先生の名を知った。最も抗がん剤を勧めなさそうな、この先生に聞いてみようという話になった。セカンドオピニオン専門の元国立がんセンターの外科医にも打診した。もし片方でも抗がん剤はやめた方が良いと言えば、抗がん剤はやめようと話し合う。ところが、どちらの先生も、「これだけ勢いの強いがんであれば、抗がん剤しかない」と言う。2人でうなだれた。でもそれが今考えられるベストなら、やるしかない。
帰る途中、ホテルのロビーで美しく飾り付けられたクリスマスツリーを2人で眺め、これから起きることを考える。少し不安になるが、私だけは強くなければと気を引き締めた。
初めての抗がん剤と入院
入院は、’08年12月15日。初めての治療でどんな副作用が出るのか分からず、年始年末にかかるため、1カ月の長期入院となる。病室は、古くて狭い相部屋だ。夫には、「これからホンモノのコスプレナースが面倒を見てくれるから大いに楽しむように」と冗談を言ったが、身長186cmの夫には小さすぎるベッドが痛々しかった。
夫の闘病中、私が心がけたのが、いつもの自分で居ることだ。それは即ち、ユーモラスな自分。がんでショックなのは夫だ、なるべく夫には穏やかに過ごさせたい。幸いなことに最初の抗がん剤は順調に終了した。
病院生活が寂しくないよう、毎日早い時間から病院に行き、面会時間ぎりぎりまで共に過ごした。毎日、食料、着替えやミネラルウォーターをリュックに詰め、病院に来る私を見て、夫は「まるで闇市に行くみたいだね」と笑った。
開放的でありたいから、病室のカーテンは閉めずにいた。ベッドの簡易テーブルに2人で向かい合い、食事を共にする。ベッドが我が家の小さな食卓となる。ちゃぶ台を囲む雰囲気が良かった。不便だらけの病院生活だがそれも楽しもうと思ったし、夫も楽しんでいた。夫はブログでその時の光景をまるで昭和の映画の世界だと表現した。要は心の持ちようで不幸にも幸福にもなる。
夕方になるといつも8階のテレビルームに行った。天気が良い日は夕陽を背景に富士山がくっきりと見える。夫は富士山が大好きだった。これは良い場所を見つけたと思った。
点滴をうけて数週間後、ベッドを掃除してたら枕に髪の毛がごっそり抜けてるのに気づく。抗がん剤の影響が出始めていた。お洒落な夫にはショックだったろう。かなりめげているのが分かった。食事を食べ終わる度、「完食!」と誇らしげに言う一方で、夫の体重は日に日に落ちていく。心は焦った。
病室の患者仲間と夫が仲良くなり、よくテレビルームで話をしていた。やはり同じ患者でないと分かち合えないものがあるのだろう。前向きで明るい人達だったから夫も良い影響を受けたようだ。初老の気さくなSさんが、奥さんが見えた時に、「石井さんの奥さんはね、毎日通って来ては、『信平さん、信平さん』って大変なんだよ。俺もあんな風にしてほしいなぁ」と言っていた。そんな風に思われていたのかと気恥ずかしかった。
信平さんの友達が何人も来てくれた。つい病気に向き合いすぎる私達によい気分転換となる。やはり、友人の力はすごい。病人に大切なのは、心配ではなく、生き生きとした空気なのだと痛感した。
つづく