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われらしんじんのこども

真人幼稚園の子どもたちの日々の様子や、
  楽しいエピソードなどをお伝えしています。

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2005-10-24 18:35:32 | Weblog
 いまこうして振り返ってみると、その二日間に起きた出来事でまず最初に思い出すのは、空がどこまでもどこまでも青かったということ。森の木々は見事に色づいて、その色が空の青さと美しいコントラストを描き出していたこと。空気は凛として冷たく、何もかもが透き通ってしまいそうなほど鮮やかだった。
 
 翌24日の朝7時頃に私たちは目を覚ました。前の晩は深夜まで余震が続いて、妻はあまり眠れなかったという。私は午前1時頃までは覚えていたけれどそれ以後はどうやら眠ってしまったらしい。寝覚めはそれほど悪くなかった。
 私たちは顔を洗い、朝食を食べた。テレビをつけると、どの局も地震に関する報道番組を放送していた。一夜明けて私たちの目に飛び込んできたのは、私たちの想像をはるかに超えた悲惨極まりない被災地の姿だった。私たちはそこでようやくこの新潟で何が起きたのかを知ることとなった。
 私はそれから幼稚園はどうなっただろうと考えた。倒壊した家屋の映像が繰り返し映し出され、多くの人が家の下敷きになったと伝えられていた。園は休みのため無人のはずだから人的被害はないだろうが、建物は潰れているかもしれないと思った。園舎の一部は園長夫妻が住んでいるが、安否がわからなかった。老先生宅はどうなっただろう?
 私たちは全ての予定を切り上げて新潟へ戻ることにした。管理人夫妻は地震発生後も終始冷静に対応してくださって、私たちは何度もお礼を言った。ご自身の家族や自宅の事もさぞかし心配であったはずなのだ。
 またおいでください、と別れ際に管理人さんは言った。お互い無事でまたお会いいたしましょう、と私は言った。そして我々はにっこり笑って別れた。車が走り出すと、管理人夫妻は何度も手を振って見送ってくださった。

 車は足早に山をおり、妙高高原インターチェンジから上信越道に乗った。時間を稼ぐためにとにかく高速で行けるところまで行こうというのが我々の計画であった。上越まではなんとか行けるだろうというのが私の予想だった。新井を過ぎ、上越市に入る頃になっても高速道路から眺める景色はいつもと何ら変わりがないように思えた。それでも中越地方が震源であり、その一帯は混乱しているということをすでに知っていたので、そこを迂回するように海岸沿いを走れば何とか新潟市へ戻れると考えていたのである。とにかく私は私の家族のことが心配で一刻も早く帰らねばと思っていた。
 私たちは高速道路内で足止めされることを避け、上越市で一般国道に下りることにした。下道ならどうにかなると考えていた。そこで上越から直江津に抜け、海沿いの道を走ることにした。実際高速道路は柿崎(上越と柏崎の中間)ですべてストップしていて、車は下道に下りなければならなかった。そのため海沿いの国道は予想以上に混雑していて柿崎から柏崎を抜けるまでに一時間以上の時間を費やした。それでも新潟方面に向かう車線は反対車線に比べるとはるかに空いているようだった。新潟方面に向かう車線はのろのろとではあったがそれでもゆっくりと進んでいるのに対し、北陸や関西方面に向かう車線は長蛇の列になって遅々として進まない様子だった。被災地域をどうにかこうにか抜けてきたらしい大型トラックやバスや一般車両が何キロにもわたって列をなしていた。その海沿いの国道がそれほどまでに混雑しているところを私たちは見たことがなかった。

 その海沿いの道も地震の規模や範囲から考えてこの先どこかで不通になっているかもしれないと考えたが、我々はとにかく行けるところまで行こうと話し合った。その先のことはそのとき考えれば良いのだ。しかしありがたいことに道は新潟市までちゃんと続いていてくれたのである。ところどころ陥没している箇所はあったが十分通れる状態であった。
 やがて野積を越え、角田を過ぎる頃には日も西に傾き、我々はようやく安堵した。無事に帰り着くことができそうだった。少し安心すると、ひどく腹が減ったような気がした。ハンドルを握りながら窓の外を見ると、日本海はやけに静かでいつもよりずっと凪いでいるように見えた。まるで何事もなかったかのように。空は相変わらず抜けるように青く、風は優しかった。車を北に走らせながら、私たちの左手には穏やかな日本海がどこまでも静かに横たわっていた。


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2005-10-24 11:30:21 | Weblog
 平成16年10月23日土曜日、皆さんはどこで何をしていましたか?
 その日はたしか全国的に秋晴れの一日で、空はどこまでも澄みわたり、新潟県内の各地でも絶好の行楽日和であったように思います。
 私はその週末の連休を利用して久しぶりに妻と妙高高原・池の平に遊びに来ていました。宿泊先は新潟日報の保養所です。妻の父親が新潟日報に勤めていた関係で、個人的に池の平を訪れる際はいつも日報の保養所を利用していました。山小屋風の鉄筋三階建てで、100人以上は収容できる立派な施設です。管理人さんは地元出身で夫婦でここを切り盛りしていますが、とても親切な気持ちの良い方たちです。そして私たちが何より気に入っているのは食事が大変に美味しいこと。管理人夫妻が毎回腕をふるってくださり、楽しみのひとつです。そして特筆すべきはその料金の安さ。保養所というものをお持ちの大きな組織にお勤めの方ならお分かりでしょうが、一般のホテルや旅館とは比べものにならないほど格安で泊まることができるのです。
 その日は少し疲れていたため朝はゆっくり起き、途中で昼食をとって、午後3時頃に到着しました。年に3~4回は訪れている場所なので今さら急ぐ必要もなく、真人祭という大きな行事も目前に控えていたので、その前に少し体を休めておこうといういわば休養のつもりでした。したがって、一日目は池の平周辺をぶらっと散策してのんびり過ごし、二日目に少し遠出をして戸隠まで行く計画でした。

 私たちは池の平に着くとそこからさらに山道を登ったところにある笹ヶ峰(大きな牧場と公営のキャンプ場がある)に行ってみることにしました。紅葉がちょうど見ごろであるという話を聞いていたからです。妙高山の頂に沿ったワインディングロードはジグザグに折れて、標高差の激しい地形を一気に上らねばなりません。夏のトップシーズンには県外からも多くの観光客や学校単位の研修生たちなどが訪れ、人や車やバスなどで大変に混雑する場所でもあります。しかしこの日はすでに時期的にも行楽に適した頃を過ぎていて、ほとんど人影もなく、時折すれ違う車も地元の人かよほど山好きな人々くらいであったと思われます。気温は平地よりも2~3度は低く、私たちはもう少し厚着をしてくるべきだったと後悔していました。
 山道を30分ほど行くとやがて私たちは笹ヶ峰に到着しました。そこで私たちを待っていたのは、全山が燃え上がるような圧倒的な紅葉の世界でした。山々はまるで炎に包まれたように赤々と鮮やかに光り輝き、風に揺らめくたびにそれはいっそうぎらぎらと光を放って、空まで焦がすようでした。私たちはしばし言葉を失って見とれてしまいました。その美しさと激しさはどれだけ言葉を尽くしてもたぶん伝えきれるものではないのでしょう。見事というほかありませんでした。そしてその向こうに広がる空の青さ。その青さはたとえようもなく深く透き通っていました。それは魂の一番奥深いところにすっと差し込んでくる。何かの啓示みたいだ、と私は思いました。10月後半の空気はさらに透明に澄んで、燃え上がる山と澄みきった青空の対比がいっそう際立って見えるのでした。
 
≪ここに何枚かの写真がある。今この文章を書きながら、時々その写真を見返してはいろんなことを考えてみる。それは一年前その笹ヶ峰で撮った記念写真だった。不思議なカーブを描いた幹の、苔むした木の前で微笑む妻。葉という葉が黄色く輝いて、本当に燃え上がっているように見える木の前に立ち、少し難しい顔でポーズを決める私。二人ともそれなりに満ち足りた顔でじっとこちらを見ている。決して楽なことばかりではないけれど、人生はけっこう楽しいものだぞとその写真の中の二人は考えているようだった。回り道をたくさんして、ずいぶん時間はかかったけど、いま僕らは心から思う。生きているってことはただそれだけで素晴らしいことなんだ、と。
 実際その時私は本当にそう思っていたし、たぶん今もそう信じている。生きることは素晴らしいと。それはあるいは、燃え上がる山々と青空のせいかもしれなかった。本当に久しぶりに心が洗われるような思いがしたのだ。それは偶然の出会いであるにせよ圧倒的な力で私の心を捉え、浄化した。私たちはそれから笹ヶ峰周辺の森をあてもなくさまよい、秋の深まりと季節の移ろいを胸に刻んだ。≫

 やがてゆっくり日が傾き、するすると山の向こうへ沈んでしまうと、あっという間にあたりはうす暗くなっていきました。気づくと薄着のせいで私たちの体は芯まで冷え切っていました。私たちは笹ヶ峰を後にし、来た道を戻って山を下りることにしました。
 池の平の保養所に戻ると、私たちは冷えた体を温めるために早速風呂に入ることにしました。保養所の風呂はもちろん池の平温泉です。(贅沢なかけ流しになっています)私たちのほかにはほとんど宿泊客もいなかったので、ひとりでゆっくりつかることができました。(ここだけの話ですが、こういう大きな湯船に入る時、ほかにお客さんが誰もいないとアタクシは大体いつも水泳いたします。潜水とか。みなさんはいかがですか?)
 というわけで、身も心も温まり精神まですっかり開放されて、風呂から上がりました。
 風呂から出ると、夕食の時間まで少し間があったので、私たちは一階の浴室となりの乾燥室(冬季のみ使うので普段は物置になっている)にある卓球台で卓球をして時間をつぶすことにしました。私は正直に言って卓球という競技にはほとんど何の興味も持てず、したがって腕前も人には決してお見せできないほどへたくそで、いくらやってもその楽しさが理解できずにいるのですが、私の妻がとにかく全国どこへ行っても卓球台と見ればひと勝負しないと気がすまない卓球好きの勝負師で、いつもここへ来ると必ず一度は卓球をすることにしていたのです。
 そのとき私たちが卓球を始めた時刻は午後5時を少しまわったころでした。初めは和やかに楽しく打ち合っていましたが、次第に妻は真剣にスマッシュなどを繰り出して、私はなすすべもなく空振りするのでした。妻の強烈なスマッシュは時々勢い余って卓球本来のつつましい時空間を大きく飛び越え、私のおでこにも当たりました。パシッと。力いっぱい打たれた卓球の球を額に当てられたことのある方ならお分かりでしょうが、これはかなり痛いですね。そして痛みに伴ってふつふつと沸き起こる情けない気持ち。想像してみてください。笑い事ではありません。
 あなたには、そもそも勝とうっていう気がまるでないのよね、と妻は言います。その通りなので反論しませんが、勝負を別にすれば、たまには妻とこんな風に何かしてみるのも悪くはないものです。私たちは結局それから何ゲームかして時間をつぶしました。
 
 ふと時計を見ると、5時50分を回っていました。6時から夕食が始まるので、私たちはラケットと球を片付け、乾燥室を出て二階の食堂へ向かうことにしました。落ちた球を拾い集め、ラケットをケースにしまい、廊下の扉へ一歩足を踏み込んだその時、コンクリートの床が大きく左右にぐらっと揺れました。私たちはとっさによろけてしゃがみこみました。一瞬の間があって、次の瞬間今度は破壊的な力強さで断続的に上下左右と大きく建物が揺れ始めました。ガラスや棚ががたがたと大きな音を立てて震えていました。私たちはすぐに扉を開け、二階に上がりました。管理人夫妻と、もう一組の客がロビーに集まっていました。最初の揺れは1分くらいで収まりましたが、しばらくすると再び大きく揺れ始めました。その場にいた人間はみな無事で、建物もがたがたと音を立てて大きく揺れてはいましたが、特に大きな損傷も見当たりませんでした。このあたりの地域でこんなに揺れるのは初めてです、と管理人さんはしきりにおっしゃいました。池の平で地震なんかまずないことだから、と。
 何度目かの揺れが収まった時、私たちはもはやじたばたしても仕方がないという結論に達し、ありがたく夕食をいただくことにしました。日が沈んで暗くなった後でいたずらに動き回ってもかえって危険であると本能的に察知していたのです。もう一組の客は年配の夫婦でしたが、責任ある立場の役職につかれているためかしきりに色んなところへ電話をかけていました。しかしどこもまったくつながらないようで、少し焦っている様子でした。テレビをつけると、新潟のどこかで大きな地震が発生したというテロップが流れていましたが、正確な震源地や震度などははっきりしませんでした。その時はまだ誰も事態の重大さを知りませんでした。何か大変なことが起きたらしい、ということ以外は。それが中越全域を巻き込んだ巨大な地震であったと知ったのはしばらく経ってからのことでした。
 それから夜が更けるまで断続的な余震が続きました。公衆電話も携帯電話も繋がりませんでした。かろうじて東京に住んでいる妹とメールがやり取りできましたが、新潟県内は回線がパンク状態で、ようやく園長と連絡が取れたのは結局翌日になってからのことでした。








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