死に対する恐怖から自殺を思いとどまったものの、いじめを
克服(あるいは解決)する術があったわけではありません。
かといって黙って耐えていける強い人間でもなかった私は、
悩んだ末、中学受験という道を選びました。
しかし、実家の経済状態や、私の学力を考えると、選択肢は
限られてきます。私は本命を教育大付属中一本に絞って、
必死に受験勉強をしました。「ここがだめなら、もう中学には
行けない」という悲壮感が漂っていました。(もちろん親には
気づかれないようにですが)
結果、筆記試験は見事にパス。ところがその中学は、筆記で
定員よりも多く取った上で、最終合格者を抽選で決めていた
のです。そして、私は抽選で落ちてしまいました。
福岡には、学問の神様・菅原道真公を祀った大宰府天満宮と
いう神社があります。私も中学受験の前にお参りに行きました。
しかし結果は、私の実力(努力)とは関係のないところでの
不合格。この出来事を通して、神に頼るとはどういうことか、
「御利益」とは何なのか、考えさせられました。大体、受験生の
ほとんどが合格祈願をするわけです。大抵の人は、精一杯努力
しています。でも、みんな志望校に合格できるわけではないの
です。つまり、そういう「お願いを聞いてもらう」ことだけを神に
求めるのは、初めから無理がある話で、それを売りにしている
宗教というのはある意味詐欺に近いと思いました。
さて、落胆ばかりもしていられない私は、急遽地元の西南学院と
いう私立校の受験を決めました。両親はずいぶん渋りましたが
何とか説得し、それまで以上に必死に勉強して、奇跡的に合格
しました。実は、入学するまで西南学院がミッションスクールだ
とは知りませんでした。キリスト教のことも、ほとんど知りません
でした。自分の意に反して、思いがけない形で、私は聖書と
出会ったのです。
入学式で校長が、「君達がここに来たのは、自分で望んでかどうか
はわからないが、神の導きです」と言われたのが心に残りました。
私の願いを叶えるのではなく、私を導く神。そういう神を初めて知り
ました。聖書的な表現ではありませんが、「運命的な出会い」を
その時感じていました。
そして、毎朝のチャペルや授業を通して、少しずつ聖書に触れて
いきました。
克服(あるいは解決)する術があったわけではありません。
かといって黙って耐えていける強い人間でもなかった私は、
悩んだ末、中学受験という道を選びました。
しかし、実家の経済状態や、私の学力を考えると、選択肢は
限られてきます。私は本命を教育大付属中一本に絞って、
必死に受験勉強をしました。「ここがだめなら、もう中学には
行けない」という悲壮感が漂っていました。(もちろん親には
気づかれないようにですが)
結果、筆記試験は見事にパス。ところがその中学は、筆記で
定員よりも多く取った上で、最終合格者を抽選で決めていた
のです。そして、私は抽選で落ちてしまいました。
福岡には、学問の神様・菅原道真公を祀った大宰府天満宮と
いう神社があります。私も中学受験の前にお参りに行きました。
しかし結果は、私の実力(努力)とは関係のないところでの
不合格。この出来事を通して、神に頼るとはどういうことか、
「御利益」とは何なのか、考えさせられました。大体、受験生の
ほとんどが合格祈願をするわけです。大抵の人は、精一杯努力
しています。でも、みんな志望校に合格できるわけではないの
です。つまり、そういう「お願いを聞いてもらう」ことだけを神に
求めるのは、初めから無理がある話で、それを売りにしている
宗教というのはある意味詐欺に近いと思いました。
さて、落胆ばかりもしていられない私は、急遽地元の西南学院と
いう私立校の受験を決めました。両親はずいぶん渋りましたが
何とか説得し、それまで以上に必死に勉強して、奇跡的に合格
しました。実は、入学するまで西南学院がミッションスクールだ
とは知りませんでした。キリスト教のことも、ほとんど知りません
でした。自分の意に反して、思いがけない形で、私は聖書と
出会ったのです。
入学式で校長が、「君達がここに来たのは、自分で望んでかどうか
はわからないが、神の導きです」と言われたのが心に残りました。
私の願いを叶えるのではなく、私を導く神。そういう神を初めて知り
ました。聖書的な表現ではありませんが、「運命的な出会い」を
その時感じていました。
そして、毎朝のチャペルや授業を通して、少しずつ聖書に触れて
いきました。
私の高校は、仏教系(曹洞宗)でした。とはいっても、「ワル」のエリート校、在学中は、かの「ウィークエンダー」で放映されました。
体育館のステージ中央には、仏壇があり、入学式などでは、「寒厳禅師発願文」なるものを唱えていました。
ウィークエンダーに取り上げられた事件があったのが二年のときでした。三年のときの倫理社会の先生がちょっと変わった人で、家はお寺さんでしたが、西洋哲学を専攻し、大学院を出ていました。その後、永平寺に数年修行、永平寺から帰ってきた年が私たちが三年のときでした。
ちょうど、学校に座禅堂ができ、放課後、その先生から座禅の指導を受けました。
後に私は格闘技を経験するのですが、座禅の呼吸と格闘技のそれとはまったく同じ、格闘技を経験した後、再び座禅をし、まともになったというのが正直なところです。
「ウィークエンダー」というのはワイドショー風のTV番組なんですね。
日テレなので福岡でもやっていた筈ですが、残念ながら記憶にありません。
私は、高校の修学旅行で永平寺に行ったことがあります。
当時は、他宗教の修行に与るなんて背教行為だと信じて疑わなかったので
座禅を拒否してホテルに残っていたのですが、今思えば、
禅宗を理解する機会を自ら放棄して、もったいないことをしました。
格闘技は何をされていたのですか?
私の知り合い(クリスチャン)には、剣術をされてる方がいます。
武道と宗教って、確かに近いものがありますね。
かなりマイナーな打撃系の格闘技です。もっとも、中学時代に柔道・剣道は、段を取りましたが
現在は、日置流の弓を引いています。
禅、特に曹洞禅が、宗教といえるか否かはわかりません。むしろ哲学の部類に入るのかもしれません。
仏教というより老荘の影響が強いです。
私自身、老荘に強く影響を受けています。
あとは、「正法眼蔵」の中の時間空間論が書かれた有事(うじ)と山水経に影響を受けました。
Googleにて拝見
「イジメ撲滅」のご案内
ご笑覧ください。
http://www4.ocn.ne.jp/~kokoro/